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さようなら内田勝さん

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標題=さようなら内田勝さん
掲載媒体=デメ研ブログ
執筆日=2008年6月 5日 00:24
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◇直感で面白いと思った時にその渦中に飛び込まなかったものは、やがて何が面白いのかを感知する力を失う。20歳になる直前、僕は「ロック」と「マンガ」という二つの新しいカルチャーの潮流を面白いと直感した。そして「マンガコミュニケーション」というマンガ批評新聞の創刊に立ち会い、真崎・守というマンガ家と出会う。当時の真崎さんは、熱狂的なファンに支えられたヒーローであった。「ヤングコミック」で連載していた「はみだし野郎の子守歌」シリーズは、僕の友だちも何人も読んで泣いた。真崎さんの住まい兼仕事場のあった「ひばりヶ丘」の駅前には、夏休みになると全国から若い人たちがアテもなく訪ねてきて、うろついていた。家出して押しかけてくる子も少なくなかった。「COM」で峠あかねというペンネームでマンガ批評をしていた時代から、一変して創作する側にまわり、「2流マンガ雑誌」でファンを獲得し、ついに「少年マガジン」に連載を開始し、別冊少年マガジンで連載していた「ジロが行く」で講談社マンガ賞を受賞した。(このあたりの記述は、まだ検索して確認していない記憶だけのものなので、何か間違いがあるかも知れない。今は検索して精査する余裕がないので、後日、確認する)。当時の「週刊少年マガジン」は内田勝編集長のもと、新人マンガ家が続々と登場し、大伴昌司さんのグラビア記事や横尾忠則さんを表紙に起用するなど、やりたい放題の雑誌であった。そこに真崎・守の「キバの紋章」という連載が始まった。女の子との付き合い方が分からなくなった少年が、暗闇の中に入る、という場面があって、真崎さんは、全ページスミベツの原稿を内田さんに渡した。「闇しばり」というタイトルだった。流石の内田さんも、困ってしまい、3頁半に妥協したようだ。しかし、スミベタ3頁半というのは画期的なことだろう。少年の心象風景を描くにはこれしかない、と真崎さんは言った。ちなみに、それから数年して「ガロ」に真崎さんが描いた時、今度は「雪」のシーンで、真っ白な心象風景を表現するために、白頁を要求した。長井勝一さんも困ってしまい「ノンブルだけはいれてダメですか」と聞いたら「雪の上に数字はない」と真崎さん。マンガを描く側と編集する側が、とてもクリエイティブな関係に満たされていた時代なのだ。

◇少年マガジンで「闇しばり」の話を読んだ僕は、真崎さんに電話して、これから1週間闇の中に入ります、と言って自分でやってみた。これも直感のなせる技だったのだが、このことが僕の人生そのものに大きな大事なことを教えてくれた。とにもかくにも、メディアを通して、さまざまな関係が生まれ、人の人生がダイナミックに動いていた時代なのだ、70年前半は。

◇内田勝さんと始めて会ったのは、そうした70年前半の喧噪も収まり、新たな時代の流れが始まりつつあった78年ぐらいである。子ども調査研究所の高山英男さんから、「今度、友だちが若者向けの雑誌を作るから、意見を言ってくれないか」と言われた。高山さんは、僕が10代の時に、読書人の投稿頁に掲載された僕の投稿記事を見て電話してくれた、僕の文章の最初の読者である。青山の子ども調査研究所は、僕が勝手に「故郷」と名付けていて、いつでも帰ることの出来る空間である。

◇内田さんは「少年マガジン」編集長を辞めた後、「月刊現代」の編集長になって、会った時は「新雑誌開発室」だったかの名刺だった。部下の土屋さんと一緒に現れて、まだ20代の僕には、とても威圧感があった。当時の僕は「ロッキングオン」をやりつつ、「ポンプ」という投稿雑誌の編集長をやっていた。内田さんといえば、出版業界ではマガジンハウスの木滑良介さんと双璧をなす巨人であった。それがきっかけで、内田さんとの関係が生まれ、いろいろな場所に連れて行ってもらっては、ごちそうになりながら、おしゃべりをした。銀座のバーや、九段の沖縄料理、飯田橋の小料理屋など、それまで行ったことはない「大人の世界」(笑)へ案内してくれた。

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