さようなら、宮澤保夫さん。


 宮澤保夫さんが亡くなった。宮澤さんは、僕の「時代の友」であり「同志」だった。

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 2008年7月11日帯広商工会議所青年部創立20周年事業「とかちローカルサミット」が行われた。旧友の後藤健市に誘われて、大喜利シンポジウムの司会をやったり、教育のワークショップに参加したりした。

 教育のワークショップは、日本各地のベンチャーな教育関係者が集まり熱気のあるものだった。はじめて出会ったのは、その場所である。

 写真で見ると、僕の右隣が宮澤さん。左隣りが教育支援協会の吉田博彦さんである。この二人の教育に対するスタンスは異なっていたが、なぜか、この二人に僕は関心を持った。

帯広教育


 翌日、宮澤さんとホテルが一緒だったこともあり、ランチをしながら話したら、会議の時よりも更に饒舌に、自分の思いを語りだした。とても聞ききれないと思い、東京で再会することになった。

 宮澤さんといつも会っていたのは、星槎学園の二宮校舎。星槎学園高等部 湘南校である。

星槎学園高等部 湘南校

 大磯に巨大な本部が出来るまで、宮澤さんは、ここを拠点にして活動していた。趣味の天体観測やプロ級のハム無線の設備もあった。理事長室には尊敬するチェゲバラの写真がはってあった。「生写真だ」と言っていたが。

 二宮に行く時は、橘川周辺の仲間を連れていくことが多かった。行くと、高校の中にも関わらず、昼間から大宴会の準備が出来ていて、日本各地から届けられた産品で、バーベーキューだ、鶏鍋だ、すき焼きだ、刺し身の盛り合わせだと、ごちそう攻めである。もちろん、大酒豪の宮沢さんから、あらゆる酒を飲まされる。僕もまだ酒が飲める時代だったので、大宴会が楽しみで、デメ研オールスターズを連れて行ったこともある。まだ10代であった、AIのべりすと開発者のStaくんも連れていったことがある。彼はお酒は飲まないが。

 僕の出版パーティにもよく顔を出してくれて、いろんな人と交流していた。

 宮澤さんのところには、いろんな頼まれごとを持ちかけられることが多かった。怪しいのも、素晴らしいのもあるが、宮澤さんは、まず何が出来るかを考える。宮沢さんの凄いのは、そうやって持ち込まれた相談を、あるゆる手を使って、サスティナブルな体制を作り出してしまうことだ。一代で、幼稚園から大学までの巨大な教育ネットワークを構築したが、おそらく、自分から広げていったのではなく、頼み事を持ち込まれて、なんとかしようとやってるうちに、巨大なネットワークになってしまったのだと思う。

 宮澤さんは、まれに見る親切でおせっかいすぎるほどの人で、北朝鮮で農作物が全滅したという話を聞いて、船をチャーターして米を送り込んだら、公安警察に目をつけられた、と笑っていた。そういう話はいろいろあった。

 数年前に、丹羽で未来フェスをやった横田親くんと一本歯下駄でブレイクしつつあった宮崎要輔くんを、大磯の宮澤さんのところに連れていった。横田くんは、彼の持ち前のパワーで「丹羽に大学を作りたいんです」と言ったら、すぐに宮澤さんが動いてくれて、1年余で丹羽に星槎大学の分校が出来てしまった。一本歯下駄は、星槎がスポーツに力を入れていたので、いろいろやり方があると言ったままで現在に至ってしまった。

 以下は、星槎のスタッフに送っていたメルマガを僕にも送ってくれていた。
10年前のものだ。

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こちらは宮澤が大磯キャンパスでの朝の打ち合わせを通じて、日々、全国の事業部に向けてされる話の内容をメールにて配信させて頂いております。
宮澤が大磯キャンパスに不在の場合は配信いたしませんが、別途、「独り言」として配信する場合がございます。

現在、お世話になっております皆様にも配信させて頂いておりますがご不要、一時休止をご希望の場合はご連絡下さい。
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2013年4月24日(水) 13:35
宮澤保夫

今日は、芦別市長がお見えになります。芦別市には頼んでいることが、本当にたくさんありまして、前市長のときにお願いしていたことも、しっかりと伝わってやっていただいております。今後は発達障害の方が参加できる街づくり、学校づくりに前向きに取り組もうとしてくれています。

昔から、僕なんかがやろうとすることは「時代が早い」って言われます。でも、僕にしてみれば、そういう傾向の子どもたちへの社会の対応って本当に遅いですから、早くはじめなきゃいけないわけです。でも社会には、やろうとしたら否定されたりするんですね。

今話題の「0増5減」ですが、これもそもそも違憲状態で行っている選挙ですから、今変えても同じことなんですよね。それなのに場当たり的に主張を通すんです。もっと手順を考えて、1年後にこうなります、その後はこうなります、というステップアップさせていく思想がないんですよね、特に日本の政治家の方に。

でも、これは僕たちにも言えることですよね。星槎も毎年お題目を掲げてやっていますが、誰が実行するの? 誰が責任取るの? 1年後どうなっているか考えている人いるの? 相対する人に、学校に、会社に、どうアピールしていくんですか? どう前に進めていくんですか?

ものごとって、出来てしまってから参加してくる人って、単に面白いと思ったり、お金になると思ったりする人がほとんどなんです。最初にやる人だけがそこに思想性を持って取り組むんですね。だから、もし誰もやっていない何かを始めようとするなら、政治家も僕らも、もっと想いを込めてやらなきゃいけない。

そういうことに気付くようにしたいですね。そう導くのをコーチングと言ったりするのかな。僕たちがもっと気付きを持てるように、そしてそれを伝えていけるようにしたいですね。

それではよろしくお願いいたします。

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 何もないところで、最初にやることが大切だ、というのは、宮澤さんと僕との共通の思いだ。しかし、宮澤さんには、それを事業化し、継続させる力と責任感があった。なぜか、僕にとっての渋谷陽一を思い浮かべる。


 2022年03月28日。久しぶりに二宮の校舎を訪問した。みかん山の上にある校舎からは、太平洋の青い海の色が見える。白い雲が一層、映える。

 死化粧した宮澤さんは、安らかな表情をしていた。やるべきことをやって満ち足りた顔のようにも見えたが、まだまだやり足りないぞという、やんちゃな雰囲気も感じられた。

 宮澤さんと一緒に未来フェスをやりたかったなあ。友人が死ぬと、残された者は、語るべき相手を失い、途方に暮れる。

 二宮の校舎には、宮澤さんのメルマガを送ってくれていた脇屋さんがいた。井上さんは「深呼吸する言葉」を読んでいますよ、と声かけてくれた。

 宮澤さんが育てた人たちに引き継がれた「宮澤保夫の魂」は永遠に続く。合掌。

▼二宮の校舎から、太平洋を見る。

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宮澤さんWiki
(僕と同じ学年。高校を出たから1972年までの間が記述されていない)

宮澤 保夫(みやざわ やすお、1949年(昭和24年)7月27日 - 2022年(令和4年)3月23日)は、教育者・星槎グループ会長・世界こども財団設立者

1949年に東京都で生まれる。藤沢商業高等学校卒業。

1972年に私立高校の教員をしながら学習塾「鶴ヶ峰セミナー」を開校する。当初の生徒は2名であったが、口コミで広まり通学生が増加していく。
1985年には日本初の企業外技能連携校となる宮澤学園高等部(現・星槎学園高等部)を開校する。以来、不登校、身体的ハンディキャップ、自閉症、学習障害の子供たちに必要な学びの場を作り、幼稚園から星槎大学、星槎大学大学院までとなる星槎グループを創設する。星槎グループは、2016年時点では約3万人が学んでおり、2016年には道都大学等を経営していた学校法人北海道櫻井産業学園を傘下に入れている。

2010年に一般財団法人世界こども財団を設立(2015年に公益財団法人となる)。主に世界中の子供たちへの教育と医療、スポーツを中心にサポートする活動を展開している。

2013年に早稲田大学大学院スポーツ科学研究科を卒業した。

2022年に肺がんのため死去、 72歳没。

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