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江戸、文化人それぞれ

 写楽を調べていた流れで、江戸の戯作者(小説家)や版元(出版主)についても一通り研究書籍や小説に目を通しました。もっとも、版元についてはあまり研究書が見当たらず、あったとしても専門的すぎてわたしにはついてゆけなかっただろうと思います。
 その中で、ある版元を主役にした小説が傑作でした。

 杉本章子著 『写楽まぼろし』

 タイトルこそ『写楽まぼろし』となっていますが、こちらは蔦屋重三郎が主人公です。
 蔦屋重三郎、当時は蔦重(つたじゅう)とも呼ばれたようです。
 彼は日本橋通油町に蔦屋耕書堂(つたやこうしょどう)という書肆(しょし 本屋)を経営しています。
 ただ本を出版して売るだけでなく、
「これは……!」
 と見込みのある浮世絵師や戯作者志望者を住みこませ、作画や戯作の修業をさせていたわけです。
 そうやって蔦屋重三郎が見出して世に送り出した浮世絵師は「喜多川歌麿」もいれば「東洲斎写楽」もいます。
 戯作者も、蔦屋重三郎は積極的に後押ししました。
 当時、戯作(小説創作)というのは金持ちの道楽と見られていたようです。
 原稿料は支払われず、版元に自作を持ち込んで自腹を切って出版する、いわば自費出版に近いものがありました。
 そういうお金持ちで文才があった人としては「山東京伝」がいます。
 この山東京伝の本業は煙草屋でした。通称は京屋伝蔵。最初の妻も後妻も、吉原の遊女出身です。浮世絵も描き、自作に自分で挿絵を描いています。吉原を舞台にしたラブコメを得意としていたため、幕府が
「風紀を乱す! ふとどきな戯作だ」
 として弾圧しました。
 もともと争うことが苦手なタイプだったうえに、罰金を科されたりして山東京伝は
「筆を折ろう……」
 と悩みました。
 それをはげまして戯作を続けさせ、日本で最初の「原稿料」を支払うシステムを導入したのも蔦屋重三郎です。
 それがきっかけだったのか、山東京伝に戯作の弟子入りしていた男が、蔦屋重三郎のもとに寄宿するようになります。
 これが後に世界初の伝記小説「南総里見八犬伝」を書いた滝沢馬琴。
 浮世絵師写楽の役者絵を刷る紙に「どうさ」という塗料を塗る仕事をしながら蔦屋耕書堂で戯作を学んでいた男もいます。
 こちらはのちに『東海道中膝栗毛』を書く十返舎一九です。

 滝沢馬琴は気難しく、他人の悪口ばかりを日記に書いています。もと師匠であったはずの山東京伝については、
「妻は遊女あがり。その妻が病床のときに京伝は遊郭で女を買い漁り、その遊女をまた後妻にすえた……」
 と事実をゆがめて書いています。
 実際の山東京伝は最初の妻を手厚く看護していますし、後妻に向かえた女性については、彼女の方から熱烈な求愛があってのことでした。
 どうも馬琴は武士の出身のためなのか、厳格で思いこみがはげしいようです。それに創作の才能がありあまって、こういう偏見を持ってしまったのでしょう。
 それでも唯一、馬琴が悪口を書かなかった人がいます。
「彼は末娘を旗本の側室にのぞまれたが、それを拒んだ。権威に媚びず、娘のことを思いやった快挙である」
 むしろほめています。
 それが同じ戯作者の十返舎一九のことです。
 もしかしたら、若いころ蔦屋重三郎のもとで同じ夢を追った『同志』という思い入れが強かったのかもしれません。

 ここまでが蔦屋重三郎がらみの文化人になります。

 もう一人、個人的に気になる戯作者が「式亭三馬」です。
 湯屋で繰り広げられる庶民のやりとりを活写した『浮世風呂』は彼の傑作です。
 浮世絵師で歌川派の総帥である「歌川豊国」と親しく、娘浄瑠璃や落語の寄席に一緒に出入りするだけでなく、妓楼で芸者遊びをしていることを瓦版に書かれたりしています。
 歌川豊国と式亭三馬の出会いは、
(おそらく寛政五年か六年ごろだったんじゃないかな?)
 その理由は、式亭三馬の処女作にあります。
 黄表紙「天道浮世出星操(てんどううきよのでづかい)」
 出版は寛政六年。
 これは三馬が十八歳の作品です。
 そしてその挿絵を手がけているのが歌川豊国でした。
 黄表紙というのは現代でいうところのコミックに近いもので、地の文章と挿絵の組み合わせが大事でした。
 版元は西宮新六。
 西宮新六は三馬を気に入り、西宮の姓をおくるほどでした。だから式亭三馬はそのころ、
「西宮太助」
 と名乗ったりしています。
 もっとも、仲良しの三馬と豊国もケンカすることもしばしばだったようです。原因はビジネスにあったのか、女性にあったのか?
 ちょっと知りたいような、知るのが面倒くさいような気分がします(笑)

 式亭三馬という人は、いったいどういう人だったのでしょう?
 十代で自作を出版となれば、現在でもすごい才能ですよね。
 山東京伝に心酔し、戯作者になりました。本業は薬種問屋(薬局経営)。
 自作『浮世風呂』の中で女性客に
「それよりは三馬がところの江戸の水をつけた方がさっぱりして、薄くも濃くも化粧がはげねえでいい」
 と宣伝させています。
 これは「湯上りには役者のように顔に油をぬる」と言う別の客に
「三馬の薬種問屋で売っている江戸の水という化粧水の方がいい」
 と主張しているわけです。(笑)
 こんなことを書くのですから、目端のきく、茶目っ気のある性格に思えます。

 叔母にあたる女性がかなり美人だったらしく、武家の側室になっています。
 身内に側室を出したとあれば、かなり名誉に思う人もいるかもしれません。しかし、三馬はその武家の名は明かしていません。明かして迷惑がかかるのを心配したのでしょう。
 当時の武家の側室の身分であれば、日中はほとんどやる仕事はありません。
 格式が高くなればなるほど、水仕事や料理といったことは人にさせるのが当たり前。もし自分が気を利かせて、なにか働こうものなら、
「下賤な者がするべき仕事で手を汚すとは、御家の体面を汚すのと同じ」
 などと見られて軽蔑され、居づらくなります。
 きれいな着物を身に着けて、日中じっとしているのが仕事……のようなもの。
 おそらく三馬の叔母という人も、かなりヒマをもてあましていたのではないでしょうか。
 側室の身分で部屋を与えられて、たくさんの書物を持っていました。
 少年時代の三馬は、その本を読みたい一心で叔母がいる武家屋敷を訪問していたそうです。
 この情報は図書館にあった「江戸戯作文庫 鬼児島名誉仇討(おにこじまほまれのあだうち)」の巻末にあった式亭三馬の伝記によっています。校訂者は林美一氏。

 式亭三馬は野心的で寛政十一年には火消し人足のケンカを題材にした戯作を出しました。その作中の描写が気に入らなかったのか、
「おれたち火消しをばかにしてやがる!」
 と火消したちが激怒。
 とび口や棒を持って、三馬と版元の家に押し掛けるというトラブルを起こしました。
 奉行所が乗り出して解決するまで、三馬は自分の家に寄りつけない状態だったとか。

 とはいえ、式亭三馬については「三馬さん」と呼びかけて、手をとって上下に振り回し
「浮世風呂、読みましたよ。書いてくださってありがとうございました」
 と感謝をあらわしたい気分があります。
 図書館で借りてじっくり一カ月かかって読み込み、解説までいちいちノートにとって江戸時代の湯屋と庶民を研究させていただきましたから。
 そのとき三馬さんには、
「ふふん、あんたの木っ端アタマでも、おいらの偉大さがわかったかえ?」
 などと傲慢なセリフを吐いて、むずむずと喜んでもらいたいものです。

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