見出し画像

静かなる社交

こんにちは酪農家ヤコです。皆さんお元気ですか。

ヘッダー画像の人、煙草を持ってますね。これ私なんですが笑。今ではお嫌いな方も多いと思いますが、今回の大事なモチーフとなっています。

全体としては社交についてのお話です。どうぞお付き合い下さい。

ーーーーーーーーーー

さて、新型コロナウィルスにまつわるあれこれ、皆さんの周りではどうですか。まだしばらくは暮らしや仕事に影響を与えそうですね。

ツイッターなど眺めていると、とても深刻な人と、ほとんど気にしない人の差がけっこうあると思います。

ウィルスといった科学的に克服していくようなものでも、人によって捉え方や直面する問題は様々で、結局ケースバイケースなんですよね。

私の住んでる自治体は、ほぼコロナ患者が出ていないんです。子供たちも手洗いうがいマスクのおかげか風邪も引かなくなりましたし、とても元気。だから割と楽観的でもあり。

一方で、春の北海道なのに、相変わらず観光バスを全然見かけないのと、そういったお客さんを相手にしてきたお店などのことはかなり心配です。これはコロナウィルス自体とはほぼ関係ないのが本当に歯痒い。

飲食店、居酒屋さんなど、人々の交流の場もずっと槍玉に上げられていますね。

レストランの壁には「黙食 黙って食事をしましょう」などという張り紙が。テーブル席には何の意味があるのか全く不明な笑、透明アクリル板がタテにヨコに配置されています。

「食べてもいいけど、とにかく言葉を交わすな、唾を飛ばすな」感がすごいです。

(かといって話をしても罰則もないし怒られるわけでもない。本当におかしな状態ですね。)

ーーーーーーーーーー

人と人との直接的な交流の機会が減っていくなか、今回のテーマ「社交」とは何なのかを考えてみたいと思います。

では始めていきます。まずは辞書的に。

人と人とのつきあい。社会での交際。世間のつきあい。(精選版 日本国語大辞典)

とあり、社会における人付き合いのことを指すようです。

別の辞書によると、

文字どおりには、人と人とのつきあい、社会での交際、世間のつきあいを意味するが、社会学的な観点からは、社会を成り立たせる原点としてとらえられる。(世界大百科事典 第2版)

どうやら文字どおり以上の意味もあると考えていいみたい。

ちなみに英語の〝mixer〟という名詞には「社交家」「社交の上手い人」とあり、人々を交わらせるどころか混ぜ合わせるところまで行っちゃうようです。そうなるとかなり動的なイメージになりますね。

おそらく、社交の「交」の意味を考えることが大事な気がしてきました。

続いては文芸評論家・福田和也氏による社交論です。

社交の本体とは何かと云えば、人の繋(つな)がりがなす織物のようなものではないでしょうか。

織物。まさに織物とは、糸がタテとヨコに「交差」して出来ていくものです。

人の繋がりを、どう作っていくか。そこが社交の醍醐味でしょう。あなたの知っている、あるいは知り合った人間同士をどのように結びつけていくか。未知の人と人との、ただ必要ばかりでなく、好みや位置などを考えて紹介する、結びつけることから、社交の場が形成されるのです。

人々が交流し、結びつく。さらに踏み込めば、その場にいる参加者たちが主体的に人々を「結びつける」。そうして社交が生まれていく。

だとすると社交とは、なかなかダイナミックで、意志的で。社会形成における根源的な熱を秘めているもの、そんなイメージができてきました。

以下続きます。

私のもっとも尊敬する社交の達人は、西部邁先生ですね。西部先生はまず数人で集まって呑む時には、必ず話題をいくつか用意していらっしゃるし、その場にいる人間がみな会話に参加出来るように常に気を配っておられる。

ホストが参加者に気を配りながら、一期一会の場を作り上げる。参加者もホストの気持ちに応えようとし、交流が生まれてゆく。まるで茶の湯の精神のようです。

なるほど、社交とはこういうものなのですね。

西部先生の名が出ましたので、保守思想にとっての人との交わり、コミュニケーション観を見てみます。

西部邁 『保守思想のための39章』中公文庫 (2012)
感性における(それゆえ特定の感情にもとづくいろいろな仮説のあいだの)背反、矛盾、逆理は放置されてよいものではない。それを放置するのは、まず自分の感性のはたらきを狭める。それは自業自得と見放しておけばよいかもしれないが、自分の表現障害は他者とのコミュニケーションを阻害し、そうすることによって社会を精神的貧血に陥らせる。他者の感性は、それを理解するかぎりにおいて自己の感性の一部となり、したがって自己と他者のあいだの感性的葛藤が自己の感性のなかにいわば移植されることになる。(p36)

難しいけど…笑

言葉づかいという人間関係の平衡棒は、それを習得していない人間を社会的失格者としてしまうほどに、重要な歴史の英知なのである。(p39)
会話こそが、そうした社会的活動の根源的な形態なのだと(※イギリスの保守主義者、マイケル・)オークショットはいう。会話は、一定の作法にもとづいて、それ自体として楽しまれながら、時々刻々と多様な話題をめぐって多種の言語活動を繰り広げる。(p61)
人間の本性を言語的動物あるいは「喋るものとしての動物」と規定するのが最も健全な人間観であろうが、そうだとすると、会話能力を喪失するのは人間の本性からの逸脱だとしかいいようがない(p61)

…どうでしょう、少しずつ見えてくるものがある気がします。

保守思想にとって社交はとても大切なもの。

本来なら人々が集まって「言葉の交換」をするのが核なんですが、それがままならないのが現在のコロナ禍だといえます。保守思想にとっては抵抗すべき危機的状況なのです。

もう1つ。こちらは社交そのものについてではないのですが、印象に残っていた文章です。

梅田卓夫・清水良典・服部左右一・松川由博 『高校生のための批評入門』ちくま学芸文庫(2012)
〔手帖6〕もっと楽しく もっと楽しく、それはもっともっと生きている喜びを味わいたいという根源的な欲望に違いない。おそらく人間を人間として成り立たせる条件のひとつだろう。それを感じなくなった時点で、すみやかな精神の死にみまわれるような。(p205)

もっと生きている喜びを味わいたいという欲求とともに人と人との交流を楽しく行えれば、その喜びは熱を持ち、血液のように社会を巡る。

逆にそういったものに価値を見いだせなければ、社会も人生も冷え切ってしまう。相手を気遣ったり、言葉を鍛錬する場が失われてしまう。

現在のコロナ禍における社交の減少を、正直喜んでいる方もいるでしょう。私も最初はそうでした。しかしいつまでもこのままでいるのは、個人にとっても社会にとっても非常に良くない状況であると認識した方が良さそうです。

ーーーーーーーーーー

♫ 休憩タイム ♪

「でも、社交が大事とはいえ、やはり今は人と会って話をするのは遠慮がち・・・」

という方も多くいらっしゃるでしょう。

それならば。新型コロナ対策にもうってつけの、「言葉はほとんど交わさないけど確かに存在する社交」の場面を描いた作品を2つ思い出しましたのでご紹介します。

人と人との交わりについて考える一助になれば幸いです。ここでコミュニケーションツールとしての煙草が出てきます。

平坂純一『人生の平行棒としての煙草 ~精神的健康増進法~』(2020)
5年ほど前、フランスの地方の路地裏で煙草吸っていたら、品のいいおばあさんが歩いてきました。かの国は路上喫煙が公然と許されており、またカフェには必ずテラスと灰皿があります(日本のチェーン店にそんな了見は無い)。おばあさんに煙がかからぬよう、種火を持ち上げると通りすがり際に「メルシー」と返ってくる。

フランスの地方とは、南東部にあるシャンベリーという街だそうです。(ご本人に了承を頂きTwitter画像より転載)

画像5

画像6

画像7

このような古い石造りの街の、路地裏ということですね。

出てくる言葉は「メルシー」のみですが、相手を思って煙草の先端を持ち上げた方も、その配慮に気づいた方も、きっと温かい気持ちでいたことでしょう。

遠い異国の地で交差したお互いへの気遣い。何気なくも立派な社交と言えるのではないでしょうか。

当作品は非常に美しい文章で構成されています。ぜひ多くの方、煙草を吸わない方にも読んで頂きたいと思います。

黒澤明 『静かなる決闘』(1949)

こちらにも、煙草を介した交流が描かれています。

親子役の志村喬さん、三船敏郎さん。2人の間にあった誤解が解けて、ホッとし合うシーンです。

画像1

画像2

画像3

画像4

誤解を解く会話の後でわだかまりが消え、お互い照れながら笑顔で煙草に火を点ける。

言葉は無くなり、優しいオルゴール音だけがBGMとして流れます。2人の心がほぐれていくさまを表すような、ほんの数十秒のシーンです。

両作品とも素晴らしいので、ぜひご覧になって下さい。休憩おわり♬  

ーーーーーーーーーー

最後に。

コロナ禍において、皆さんそれぞれの立場の困難に振り回されたり、我慢する日々がまだまだ続くのかもしれません。

それにしても結局コロナ禍とは何を指すんでしょうか?よく分かりません。この一年あまり、そんなことばかりのような気がします。

しんどい状況の中、誰かのことを大切に思う気持ちの熱までも、失うことのないようにしたいですね。直接交わす言葉は、今は減ってしまっているとしても。


それではまた。