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ルカシェンコ大統領に手紙を書いたら返事がきた話

えーと、みなさんはルカシェンコさんってどなたかご存知でしょうか。
今、平和的なデモを徹底的に弾圧して、世界を騒がしているベラルーシの大統領ですね。強権的な統治スタイルで「欧州最後の独裁者」とか、ソ連時代を彷彿とさせるような言動で「ジャガイモ大統領」とかいうあだ名を与えられ、ロシアのプーチンさんを嫉妬させる勢いで、欧米各国からはひんしゅくを買いまくってる御仁です。で、今日はそんなルカシェンコさんのお話です。

5,6年くらい前だったと思いますが、僕は当時ロシアにある小さなコンサル会社で働いていました。そこで日本の企業がロシアでビジネスを行う時のお手伝いをしていたんですね。ある時、日本のウエディングドレスメーカーから縫製工場を探してほしいとの依頼が来ました。今はどういう状況か分からないのですが、当時は日本の多くのドレスメーカーが中国やベトナムにドレスの製造を外注していまいた。ただし、それらの国では人件費が安いというメリットがある反面、縫製のクオリティで難点がありました。さらに、あまりにも多くの海外企業が殺到したために人件費も上昇傾向にありました。そこで、前述の日本のドレスメーカーは東欧の縫製工場に発注ができないかと考えたわけです。

あまり知られていませんが、ソ連時代は地域ごとの分業制で作るものがある程度決まっていました。例えばウクライナでは小麦、アルメニアではコニャック、アラル海の方では綿花栽培とかそういうことですね。それでベラルーシではソ連時代に衣服の製造が割り振られ、その名残で今でも縫製産業が盛ん、という流れだったと思います(若干記憶があやふや)。ということで、われわれはベラルーシでドレスを製造できる縫製工場を探すことになりました。

ちなみに、これまたあまり知られていませんが、ベラルーシやウクライナのような国は伝統的にロシアの影響が強く、ロシア人の居住者も多いです。日常的にロシア語が話されており、今でもロシア語しか話せない人が多数います。ベラルーシのルカシェンコさんは基本的に会見は全てロシア語で行いますし、ドラマで大統領役を演じて、本当にそのままウクライナ大統領になってしまった元コメディアンのゼレンスキー氏も、ウクライナ語よりロシア語の方が得意であるのは有名な話です。ということで、ロシア語ができれば基本的にベラルーシの情報を取ることは難しくないわけです。

ところが情報を探し始めると意外と簡単ではないことが分かりました。そもそもそういう縫製工場は中小企業が多く、かつ国内向けの仕事がメインで、ホームページすらまともに持っていないところが多かったのです。苦労して見つけた先にコンタクトをとっても音沙汰なく、メールの返信もなく、電話は通じず、非常に困った状況に追い込まれていました。日本からの現地視察の時期はじりじりと迫ってきます。

当時僕は現地の大学からインターンで来ていて、のちに自分のパートナーとなるロシア人の女の子と一緒に2人でチームを組んでこの案件を担当していました。あらゆる方法を使っても全く成果がでない状況に、就業時間を過ぎたオフィスで椅子に座って二人で途方に暮れていました。「これはやばいですよね」と彼女。「うん。これは控えめに言ってけっこうやばいね」と僕。「どうしましょうか」と彼女。僕は空気をよまずにくだらない冗談を言って、よく周りからひんしゅくを買っているのですが、その時にも僕の頭には一つくだらない "ジョーク" が浮かんでいました。「大統領に手紙を書いてみようか」と僕。聞き間違えたと思った可哀そうな彼女は「はい?もう一度言ってもらえますか?」と聞き返してきます。「考えてみてごらんよ。日本の企業がベラルーシの企業と仕事をしたがってるわけだよね。これがうまくまとまれば、ベラルーシの経済にもプラスの影響を与える。だからベラルーシは国としてこれを後押ししない理由はない」。彼女はゆっくりと口を開いて「そのロジックは分かるのですが、なんでそこで大統領が出てくるんですか?」と怪訝そうな、というより狂人を見るようなおびえた表情になって聞き返します。「だって、もう僕たちはあらゆるところにコンタクトをしたじゃない。全ベラルーシ縫製協会、ミンスク商工会、ベラルーシ産業省、ベラルーシなんとかかんとか、、」「で、全くどこからも音沙汰がない。もうこれはあの国で一番偉い人にコンタクトをするのがいいんじゃないかな。ほら、ベラルーシもロシアと同じでスーパートップダウンの国だから、きっと大統領が一声かければ縫製工場の5つや10個くらい簡単に紹介してくれるよ」。普段は納得いかないことがあると絶対に仕事に取り掛からない彼女は、珍しくほとんど反対せずに「分かりました」とつぶやいてパソコンを開きました。きっと僕が頭がおかしくなったと思ったんだと思います。あまりこの人に深く関わるのはよそうと。「ところで、私、大統領に手紙なんて書いたことないんですけど。なんて書けばいいんでしょうか」と彼女。「うん。自慢じゃないけど僕だって大統領に手紙なんて書いたことないよ」。とりあえず僕が日本語で下書きをしてそれを彼女にロシア語にしてもらいました。そして、ルカシェンコ氏がでかでかと映るベラルーシ大統領府のHPで見つけた連絡先へ出来上がったメールを送りました。はっきり言ってほぼやけくそ(DHCは関係ない)でした。

3日後、メールの受信箱に見慣れないアドレスからメッセージが届いていました。そこには、弊国の産業に興味を持っていただいたことに感謝申し上げるうんぬんという文面と共に、ベラルーシのいくつかの都市別に縫製工場をピックアップしたエクセルのリストが添付されていました。もちろんそれはルカシェンコ氏本人からの返信ではなく、どこかの省庁の担当者からのものでした。正直どういう経路でそのメールが転送されていたったのか定かではありません。もちろんルカシェンコ氏本人が僕が書いたメッセージを読んだ可能性はほぼゼロに近いでしょう。正直、僕の中ではこのことはすっかり忘れ去られていました。それが最近、ベラルーシのデモのニュースが頻繁に流れてくるようになり、あの手紙のことを思い出したのです。

その後、日本から来た担当者のアテンドとして、雪が降りしきる11月のベラルーシを訪れました。気候のせいもあったと思いますが、首都のミンスクですら、何かしら重苦しいソ連的な雰囲気があり、人々の目にもあまり生気がないように感じました。今になってみれば、それはルカシェンコ氏を中心とする中央政府から長年に渡り抑圧されてきた結果だったのかもしれません。今彼らはその状況に反旗をひるがえし、ルカシェンコ氏に対して果敢に戦いを挑んでいます。敵は強大で、戦況は圧倒的に彼らにとって不利です。でも、彼らのことを世界中の人が応援しています。どうか彼らの思いが通じて、この暗く重い冬が明けた時、春のミンスクの街で彼らの笑顔がはじけていることを切に願っています。


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