自信とは「自身」なのではないか

ふと思った。
「自信がある」というのは「自身がある」ということではないのかと。
わたしが知る限り、個性的で自身という生き物を全うしている人達はみな一様に自分自身に対して自信を持っていたように思う。(一部例外はあるが)

教育機関によって個性は奪われ没個性的な社会にあって自信を持つ、ということはありのままの自分でいかにいられるか、という事なのではないのかと。もちろん、個性を隠しながらも本音と建前をうまく使い分けて自分らしさを失わずに生きている人たちの存在も知っている。
ただ、心の反応と「こう反応するべき」と教え込まれた内容とにあまりにも乖離があると何を信じていいのか分からなくなってしまうのではないだろうか。それがひいては自己否定や自己欺瞞につながり、自信を喪失するきっかけになってしまうのではないか、と。
かくいう自分も没個性的な時期があった。
そのときの自分には自信がなく、オドオドして生きていたのを覚えている。
しかし、それから徐々に素直に生きる方法を模索しながら34年生きてきて、今は自分に嘘をつく必要がないほどに素直な気持ちで生きれるようになった。忖度はしないし、本音が出せる。たとえ誰かが知らなくても自分が自分の感情に嘘をついているのを、自分自身には隠せないのだ。
人は欺けても自分自身は一生、欺くことはできない。
一部の人間は自分すらも欺くことができるがそういう人はだいたい詐欺師に近い。実際、そうやって自己を正当化して詐欺を働いている人も大勢いる。

「己の『個性』を肯定する先に自信はある」

すべての人は本来、個性的である。
個性的では無いひとなど本来いない。
好きなものも各々違うし、嫌いな物も各々違う。
そして感じ方も、考え方も物事の捉え方もそれぞれ違う。
だが、ここで話しているのは趣味の話ではない。
人格の話だ。
己の個性を肯定する、とはどういうことなのか。
それは「言葉にして自己を主張する」ということだ。
自分が考えていること、自分が思っていること、自分が感じていることを言葉にして誰かに伝えることこそ、自己を最大限に肯定していることの証だとわたしは思うのだ。
大抵の人は言わない。
なぜなら自己というものを肯定しきれていないからだ。
そして周りの大人達がその自己というものを否定してきたからだ。
大人になる頃にはすでにトラウマが出来上がっており、自分が思っていることや感じている事を言葉にして素直に表現する方法を失っているのだ。
言葉にできない、というのは多くの人が思っている以上に脳に対する弊害が大きい。脳科学でも言われているが、自分が発した言葉が誰に一番作用するかといれば自分自身なのだ。自分で発した言葉は自分に返って来るのだ。
だから他人を否定している人は自分を否定しているのと同じナノだ。
そういう言葉遣いだけでもその人の自己肯定感が高いか低いかがわかる。
脳科学の話で言えば音読は前頭葉を刺激して、細胞の発達を促すことがわかっている。そして特に感情を込めた言葉は前頭葉を強く刺激して、発達・成長を促すことまでわかっている。
ただし、感情を込めた否定や他者への避難などを言葉にしてもその反応は起きない。むしろストレスが溜まる一方だ。なぜなら他者を否定することも自分自身を否定することも、同じことだからだ。
昔の言葉で言えば「人を恨まば穴二つ」ということだ。

欧米では自己を主張することが推奨されている。
見てみればわかる通り、自己主張がしっかりできる人間はみな一様に自信に満ちあふれている。流されることはないし、自分に嘘をつく必要がないことも心の底から理解している。
彼らは自己を、そして他者を否定することなく自己を主張することができる。世の中には他者を否定し批判することで自己肯定感を得ている人もいるがそれとは別物だ。あれはまがい物の歪んだ自己肯定感であり、真の自信ではない。本物の自信は他者も、そして自己も否定しない。

そういう私の今のマインドは「否定も肯定もしない」というところにある。
ただ、ありのままに生きる。嘘をつかない。自分に素直に生きる。
たとえ損をしたとしても良い。自分に素直に生きる。
バカ正直になるのとは違う。でも素直に生きる。
素直に思いを伝えることに重きを置くと自然と自己表現が豊かになる。
いま、こうしてブログを書けているのも自分の心に素直になれたからだと思う。ちなみに今、川沿いでウナギ釣りをしながら書いている。
釣りをしながらブログを書く。わたしにとって最高のシチュエーションだ。
人と向き合うのも好きだが、自然と向き合うのはもっと好きだ。
だからこそ素直でいられるのかもしれない。

自分を信じず他人を信じるようにそむける社会


残念ながら我々の社会は他人を信じるように私たちを教育機関の中で洗脳するのだ。自分は愚かで、間違った判断を下すから他人を信じろ、大人を信じろ、大人の言うことを聞け、と。
そうやって洗脳されきった人たちは自分で自分を信じる心の筋肉がなくなり、結果的に誰かを信じて生きていかなければならなくなる。
だから宗教は無くならないのだ。なぜあれだけ興隆するのか私には分からなかったが、自己を信じることができない人たちからすれば、それでも宗教は有り難い存在なのかもしれない。

そうやって出来た「自己不信性人格」は機能しないことが多い。
自分で物事を判断できない。だから詐欺にあう。
自分で自分を信じられない。だから新興宗教に入る。
自分で物事を決められない。だから周りに流される。
自分で自分を肯定できない。だから他者に抗えない。
はっきり言ってそういう人間は無力なのだ。
抵抗力も無く、嫌でもこちらの言い分を飲んでくれる。
NOが言えない。そういう人はまさしく自我を肯定する力が0なのだ。
ブラック企業なるものが存在するのも、抵抗力を持たない人間がいてこその図式だと私は思う。もしすべての人が自分の意思をはっきり伝えられる人だったとするならばブラック企業なるものは存在し得ない。
精神的猛者が弱い者たちの労働を搾取する、それがブラック企業の図式だとするならば、わたしの読みは間違っていないと思う。
現にそういう現場を嫌というほど見てきた。

そうは書いていても自信という言葉の定義が未だにわからない。
自信・・・。
そもそも自分を疑う理由がどこにあるのか?
それは単なる洗脳なのではないか?
もし人が生まれながらにして自分を信じる術をもっていないとするならば人は生まれながらにして精神病だということになるのではないか?
だとするならば自己否定、自己欺瞞、自己懐疑的な思いは後天的に植え付けられた「洗脳」なのではないか?

答えは未だに出ない。
しかし、少なからず自分が思っていることを素直に自分で受け止める気概の無い人間に自信は宿らない。
嫌われるのでは?という恐れを脱しない限り、人は真の自己肯定感は得られない。それだけは現時点でもよくよく理解している。

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