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もしも会議が参与観察になったら。

学生アシスタントの井潟が、2022年4月に合同会社として走り出したばかりのメッシュワークの日常を内側から伝えるマガジン「もしも人類学者の目がインストールされたら」

2022年5月にメッシュワークとして初めて開催した全4回のオンラインセミナー「日常と出会いなおすレッスン①観る」は、身近なフィールドでの経験を言語化する訓練を通して参加者の皆さんに、人々の行動や場の状況を「観る」際の精度/解像度を高めてもらうことを目指しました。

「もしも会議が参与観察になったら。」と題した今回は、メッシュワークとして初めて開催したオンラインセミナー、「日常と出会いなおすレッスン①観る」の全4回を終えてから3週間後に、参加者の皆さまからいただいた声を届けるnoteの後編です。(前半のnoteはこちら

環世界をいったりきたり

オンライン座談会の後半では、「3週間という短い期間ではあるけれども、セミナーを終えた今、何か変化を挙げるとしたら?」という問いを投げかけた。さっそく、UXデザインに携わる井手あぐりさんからこんな答えが返ってきた。

セミナーが終了してまだ3週間だが、フィールドノートを他の参加者と見せあったとき、自分の視点で見ているだけでは見えないモノの存在を強く意識したために、お客様にインタビューをしているときにより一層、お客様の「環世界」が気になるようになった。お客様の言葉によるフィルターが掛かった環世界を、インタビューを通じて見ているような。だから、相手の環世界と自分の環世界を行き来する感覚がすごく残っている。

井手あぐりさん

「環世界」はもともと、生物学者のユクスキュルによる「それぞれの生物がそれぞれの感覚や身体を通して生きている世界」を示す言葉だ。話し手が経験する「環世界」が、話し手によって言語化される、それを聞き手は想像しながら、自身が経験する「環世界」と照らし合わせる。そのような過程を「言葉によるフィルターが掛かった環世界を行き来する」と表現してくださったのだろう。単なるユーザーとしてではなく違う世界を見ている「他者」として相手を理解することを試みる、それには自身に立ち返る過程が必ず含まれるんだ、という比嘉さんや水上さんのメッセージを消化し、環世界という言葉で再び表現してくださったことが、嬉しかった。

人々とともに創造する

参加者からメッシュワークへ投げかけられた質問もある。サービスデザインに携わる山岸智子さんは「『人々とともに研究する』の先に、『人々とともに創造する』もあり得る、と思っている。それは、人類学的視点から考えるとどういう状況なのか?」という問いを提起してくださった。ちなみに「人々とともに研究する」とはセミナー最終回で引用した、人類学者インゴルドの著書『人類学とは何か』に登場する言葉である。それに対し比嘉さんは、次のように答えた。

人類学は現在よりも、過去に起きたことを書く。民族誌としては「いまここ」を見ているんだけど、それはどんどん過去になっていく。参与観察を共にしてはいるけれど、未来に向かう行為に、あまりコミットしてこなかった人類学者も多い。一方で、デザイン人類学という新しい分野も現れているように、デザインとして形に落とし込む場合がある。それがプロダクトでもサーヴィスでもシステムでも、デザインする、形づくる営みはまさに未来志向。ある人々を参与観察を通して理解しながら、彼ら彼女らと一緒に何かをつくる、そのつくるプロセスをまた参与観察を通して理解するというような再帰的な在り方を「メッシュワーク的」として考えている。それは人類学業界ではまだまだ珍しい話なので、これからどう転ぶか分からない会社を作った勇気はほめたたえられた(笑)。

人類学を学び始めた学生として、こういった話を聞きながら引っ掛かる部分もある。セミナーを通し、自分がどう現実を捉えるのか、癖や傾向を掴めるようになったと言う参加者は多い。でも、フィールドワークに避けがたく自己理解の過程が含まれるのであって、自己理解の道具としてフィールドワークをするわけではないのだから、「これが人類学なんだ」と思われることは、メッシュワークの本意なのか。比嘉さんに聞くと、こんな答えが返ってきた。

今回の「日常と出会いなおすためのレッスン」は、私の意図としては、別にそれが「人類学という学問の基礎」でもなければ「(技法的な)フィールドワーク入門」というわけではない。むしろ、人類学的フィールドワークのコアにある自分の視点から「他者」と出会いなおし、そこから彼らの世界を理解しようとするプロセスの一端を感じてもらった、というのが比較的適切な説明なのかなと思っています。

参与観察×会議

UXデザインのほか企業の経営に携わる藤本さんは、「もしも会議で参与観察したら、どうなるだろう」というところから、「参与観察会議」と自分で名づけた集まりを主催しているという話をしてくださった。

遠隔でリアルな会議も減っているので、与件、決まった議題なしで最近気になることを一時間みんなで喋る会を試してみようと思い、それを「参与観察会議」なんて呼んでいる。賛成、反対を言わずにとにかく、5人から10人で特定の部署ではなく組織横断的に人を集めて。私はファシリテーションするわけでもなく、課題解決の場にしましょう、と言うわけでもなく、ただ会話をフィールドノート的に記録する。それを後日、他の役員に見せると「こんなに喋るの!?」と驚かれる。でも翌週には、その会議がきっかけで「これやってみたいです」と言う人も出てきた。ただ放っておくことが「参与観察」と言うと違うかもしれないが、この時間で絶対に結論を出す、と時間の活用の仕方を明確に決め過ぎずに、かつあらかじめ持ち寄った仮説を基に議論しない会議が、意外と良い感じに回りだしているのがここ3週間。まだ3週間だから「こんなソリューションが生まれました」なんて事例にはなっていないけど、少なくともみんな楽しみにはしているみたい。

これを受けて比嘉さんは(厳密に条件や環境を設定、管理する)自然科学における実験と対極にあるような、その場に佇んで観る、聴く営みが参与観察である点で、確かに共通点はあるかもしれない、とコメントする。

noteの前半で、メッシュワークで学ぶ人々は人類学に興味がある社会人である以上に、人類学に触れる前から各自のフィールドの内側に身を置いている人々だと書いた。さらにこの「参与観察会議」の話から、フィールドを不断に変化させていく可能性を持つ人々でもあると改めて気づかされる。普段は顔を合わせない人たちを一つの場に呼んでみて何が起きるかみてみたり、そこでの会話を聞き流さずに書き留めてみたり。藤本さんの言葉を借りれば、意外と良い感じに回りだしているから少し続けよう、あるいはやっぱり別の方法を試そうか、と各々のフィールドで目の前の反応を観ながら、その場で調整を繰り返すことができる。

ビジネス教養として人類学を提示するコンテンツは少なくないし、それらとメッシュワークが提供できるものとの明確な違いはなんだろうと、学生アシスタントとして常に考えてしまう。こういった、小さくても具体的な実践を蓄積し、共有し、さらに新たな実践に繋げる場としてメッシュワークは機能できる。というのが、座談会の録画を見返し、参加者の言葉を書き起こしつつ記事を書きながら得た、暫定的な答えだ。

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