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「芸者って娼婦なの?」外国人に聞かれたので調べてみた。

外国人によく聞かれる日本文化の一つが、芸者についてである。

日本といえば「fujiyama!Geisha!」そんな我々にとっては少々古臭いイメージのジャパンは、外国人の間では未だに根強い人気がある。

もちろん、多くの若い外国人にとって、日本は漫画とアニメ(とポルノ)の国という新しいイメージが浸透していることは間違いないが、まだまだ伝家の宝刀「fujiyama!Geisha!」には敵わない。

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そして、その芸者についてのよく聞かれる質問というのが、

「芸者ってプロスティチュート(娼婦)なのか?」である。

僕はこれまで、この質問を受けるたびに、「芸者と娼婦は違います」と
威風堂々と知ったかぶりをして、雰囲気で答えてきた。

しかし先日、芸者のことを詳しく聞かれ、説明がうまくできず、アメリカ人の一回り年齢が年下のポール君に

「日本のことを海外に発信するコメディアンとして、日本の芸者を語れずにいて、恥ずかしくないのか?」

とお叱りを受けたのをきっかけに、芸者について、徹底的に調べてみた。(芸者に関する本一冊流し読み)

1.芸者とは?
2.芸者の発祥は女歌舞伎
3.吉原芸者と深川芸者
4.柳橋芸者誕生
5.芸者文化の消滅


1.芸者とは?

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芸者とは、踊りや三味線などの日本の伝統芸能で宴を盛り上げる存在である。芸者の世界は、花柳界と呼ばれ、現在も日本中に花街が存在し、京都の祇園や、東京だと赤坂、浅草、神楽坂、新橋などが有名である。

芸者の仕事は、芸事に励み、踊りや三味線などの芸で、お座敷のお客様をもてなす事。

ちなみに、あそこのおもてなしは一見さん以外もお断り。

というわけで、「”現在”の芸者は、娼婦ではない」と断言することができる。

がっしかし....歴史を振り返ると、そうとは言えないのである。

2.芸者のルーツは女歌舞伎?

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芸者のルーツは、江戸時代の初めに流行した女歌舞伎にあるという説がある。女歌舞伎は現在の歌舞伎の始まりと言われ、出雲大社の巫女を名乗る阿国という女性が男装して演じる「かぶき踊り」が源流とされる。

かぶき踊りとは、奇怪な格好でおかしなことをする「かぶきもの」と呼ばれる者たちの、扮装やしぐさをとりいれた踊りで、男装して茶屋で女性と遊び戯れる様子を、歌や踊りで表現するそのエロクレイジーなその芸能であった。

その流行にのり、女性芸能者の集団が次々と現れ、三味線が取り入れられるようになり、女歌舞伎となったと言われている。

歌舞伎の始まりは、まさにスケベ宝塚歌劇団であったのだ。

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もちろん舞台だけでなく、その後の宴席、枕席でも男たちの上で踊り狂い、
女歌舞伎が行われた宴席は、芸能とエロが織りなす、カオスな変態パラダイスと化した。

時の幕府は風紀が乱れること(変態パラダイス)を恐れ、女歌舞伎を禁止し、芸能と売色を分離するために吉原(変態ランド)を作り、

色を売る芸人を取締り、遊郭へと隔離したのだ。

この幕府の歌舞伎女取締りの網の目をくぐり抜けた若い踊り子たちは、町中で、ひっそりと個人営業を始めたと言われている。若い芸者と年増の芸者が二人1組になり、若い芸者は踊り子、ベテランは三味線を持って伴奏をするという、個人営業スタイルが人気になり、座敷での宴席に色を添えて盛り上げたのだ。

もちろん裏の枕営業も添えることも忘れずに。
そして、その踊子たちが”芸者”と呼ばれるようになっていったのである。(諸説あり)

3.吉原芸者と深川芸者

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江戸の芸者のルーツは東京の深川にあるとされている。深川は近くに川が流れ、火事も少ないことから、商人が多く移り住み、それに伴い、料亭や幕府非公認の岡場所(私娼屋)が多く誕生した。

そして、この岡場所に集まった踊り子たちが深川芸者のルーツとなったのだ。彼女たちは、三味線や踊りで、宴会を盛り上げるだけでなく、

必要に応じて、男性のあそこも盛り上げたのである。

深川芸者は2枚看板と言われていた。2枚とは、芸能と色どちらも楽しめるという意味である。しかし、表向きはあくまで色を売らないことを建前としていたのだが、

残念ながら、建前は建前であることがスケスケであったため、深川芸者は、幕府非公認の芸者であったのだ。深川だけでなく、町中に町芸者と呼ばれる幕府非公認の芸者が存在していた。

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芸者は、本来芸も売り、色も売っていたのだ。ただ簡単に色を売れば、それは床芸者、近代では温泉と呼ばれ蔑まれた。

自分の芸者の価値を高めるためには「めったに寝ない」というのが肝心であり、そうであるからこそ、芸者は体を売らないという建前が機能したのだ。

本来ならば、体を売らないはずの芸者と枕を共にできるかもしれないという
淡い期待が、男たちの財布の紐を緩くしたと言える。

この日本男児のスケベ心は、現在、キャバ嬢に淡いを期待をもって通いつめる形で脈々と受け継がれている。

芸者として人気になるためには、宴席で芸事を披露する頻度よりも、
床芸の頻度が大切であった。

だから、芸者は誰とでも寝る娼婦とは似て非なるものである。
芸者は寝る相手を選んでいたのだから。

当時、深川で私娼を行っていた芸者が115名ほど検挙され、吉原へと引き渡される事件が起こった。吉原では、芸事に秀でた女性を、それに専念させ、色を売る遊女と芸を売る芸者を明確に分けられ、他の芸者とは異なる

色を売らない吉原芸者が誕生した。

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この吉原芸者は、幕府公認の芸者として認定され、公の場で芸者を名乗ることを許された。しかし、吉原内でしか活動できないという制限があり、幕府の厳しい管理下に置かれていた。

幕府は、吉原芸者を芸事に専念する本物の芸者として認めたが、
庶民の間でも、吉原芸者は認められていたに違いない。

芸事しかしない偽物の芸者として。


4.柳橋芸者誕生

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一時期、隆盛を誇った深川も、徐々に芸事よりも色事に比重が置かれるようになり、取締りが強化されたこともあり、徐々に衰退していった。それに代わり、明治時代まで柳橋エリアが花街として人気になっていった。

その理由は、深川が街の品格を失いピンク街になっていき衰退したのに対し、柳橋では公は料亭として食を提供し、裏で上手にエロを提供したからである。

日本人にとって、色と芸を分離するというのは不可能であり、そのどちらか一方だけに集中すると衰退するという宿命を持った。(芸者と遊び:田中優子)

何よりもそのバランスが大切であり、

ひっそりとバレないように色を楽しむのが、日本人を一番興奮させるのだ。


5.芸者の消滅

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明治時代になり、西洋化が進み、芸娼妓解放令が配布され、人身売買が禁止され、親や家族の借金のために、芸者・遊女になっていた女性の年季奉公は禁止され、芸者は晴れて自由の身となる。

これで芸者がなくなったわけではなく、新しい制度のもと、希望者は誰でも芸者になれるようになり、新しい芸者が誕生したのだ。(ニュー芸者)

ちなみに欧米で、ゲイシャ=娼婦というイメージがついたのは、第二次世界大戦後、GHQによる占領下に、多くの日本人の娼婦が偽物のゲイシャに扮して米兵の若者たちに対して売春を行ったことで、そのようなイメージがついてしまったのだ。

アメリカ兵は、本物のGeishaの床芸を楽しんだと信じていたが、実際は、日本人変態男性が、電車痴漢プレイを風俗で楽しむように
Geishaの変態ロールプレイを楽しんでいたのだ。

今後、外国人に「芸者は娼婦なのですか?」と聞かれたら、日本人として、当時の深川芸者と同じように、堂々と言ってやりましょう

「Geishaは売春を致しません」



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