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感想

私は、感想が苦手だ。
小学校、中学校、高校、ことあるごとに感想を書かされた。
優等生を演じていた私は、優等生らしく、それっぽく、それでいて少し捻った見方をしたような、この子には才がある、と思われそうな感想を書いてきた。
何かを体験して、「思う」。
何かを見て、「思う」。
何かを知って、「思う」。
それが私にはできなかった。
だから、演じた。
誰かの感想を書き続けた。
優秀で、異彩な、誰か。
なのに私は、それが認められたら自分が認められたと勘違いして喜んだ。
自惚れた。
私は優秀で、異彩。
そう思っていた。

やっと最近気付いた。
それはやっぱり、私じゃなかった。

20歳になって、自分が浅い人間のような気がして、今年は映画をたくさん見る、本をたくさん読む、芸術に触れる、人の心に触れる、と目標を立てた。
それで気が付いた。
私は感想が言えない。
言葉にできない。
溢れ出る感情や、疑問や、感動、それを人に伝えることができない。

ひとつは、畏れ多いから。
作品を作っている側の数十人、数百人、数千人のひとたちのおもいがあって、それに対してちっぽけなこの私が、感想なんて言えない、と思う。
謙遜というより、不可能。難しい。
おもいがぐわっと押し寄せてくるように感じて、波に襲われたように私が潰されてしまう気がする。

それに、正解を求めてしまうから。
もちろん、作品は見る人聞く人、受け手がどう受け取ろうと構わないし、その受け取り方に正解などない場合も多いと思う。
だけど、自分の思う感情や疑問、憶測が間違いかもしれない、という思いが常にあって、言うのが怖い。

そして、言葉にできない。したくない。
私の中にあるものを、言葉にしてしまうと、私の中のものではなくなってしまう気がする。
頭の中にひとつ大きな空間があるとしたら、ひとつひとつの言葉が点になってまだらに広がっている。私のおもいは点と点と点と点の間にあって、言葉などない。
いちばん距離の近い点を使えば、感想にはなるが、それは私のものじゃない。
というような感じ。

Twitterやらインスタやら、noteやら、ネットやら、たくさんのところに溢れている感想はみな、作られた感想なのだろうか。
感情や疑問や憶測の正しさに、自信はどうやったらついてくるのだろうか。みな信じないまま語っているのだろうか。

煮えたぎる頭の中を、なんとか冷やして心の中におとす。
ふと言葉を出した自分が浅く見えて、やるせない気持ちになる。
こんなことを繰り返してばかりで、私の中の本当のおもいは形にならない。難しい。
感想が苦手だ。

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