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連載『旅するコットン。』高知の旅【1】

旅エッセイの企画『ソファでわたしは旅をする』で、中前結花が担当する連載小説です。今回は第1話。

膝の上で、ビニールのボストンバッグの中身をあれこれと探っている。
「モバイルバッテリー」が荷物の中に入っていると、空港では預かってもらうことができないらしい。

つい数分前、抜けるような空のブルーを窓越しにぼんやりと眺めながら搭乗口まで進んだところで、「お客様……」と呼び出され、わたしは荷物を預けた窓口まで、また急ぎ足で舞い戻ることとなった。
まだ離陸までの時間はあるものの、近くの長椅子で冷や汗をかいている。

思えば、飛行機ぐらい何度となく乗っているのに、これまでこんな失敗や心配をしたことは1度もなかった。
それもそのはず、こういった類のことは全て、岡野が代わりに段取りをしてくれていたのだ。
木綿子(ゆうこ)はルールを守ることに、からっきし向いていない。

「お隣よろしいですか?」

不意に声をかけられて、はっと驚いて見上げる。
あわあわとして声を出せずにいる間に、首を傾げ、女性は行ってしまった。
ジャケットを来て、ずいぶんとしっかり見えたけれど、きっと自分と変わらぬ年頃だろう。
木綿子は全てが情けなくなる。
何しろ、飛行機に1人で乗り込むこと自体、はじめてなのだ。
「ひとり旅」をする気なんて、昨晩までこれっぽっちも無かったのである。

   ***

岡野とは、暮らしはじめて3年と少しになる。


木綿子は洋服が好きだった。
小さい頃から、カタログやチラシを切り抜いては、自分だけの雑誌を作り、日がな、それをうっとりと眺めていた。
「ファッション誌の編集部で働く」
それが20年近く夢見ていた彼女のたったひとつの願いであったけれど、あいにく、就職活動の荒波はそんな彼女を飲み込み、冷たく突き放した。

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なんとか拾ってもらえたアパレル商社の仕事を、母親や姉は、
「夢が叶って良かったじゃない」
「充分、充分」
と言ったけれど、木綿子はそんな言葉を聞くたびにうんざりとする。
到底、自分には向いているとは思えない生産管理の仕事を任され、そのあとは新店舗の開発のプロジェクトに入れられた。
充分がどうかは、自分が決めることだろう。
幼い頃から夢見た世界と「なんだか違う……」が、いつからか「全然違う……」に変わり始めた頃、そんな仕事の現場で出会ったのが岡野だった。


新店舗は若年層の取り込みを狙い、それらしい立地で「これまでとは違うコンセプトで1から作ろう」となった。
それに合わせ、規模は小さいながらその手掛けるデザインの「目新しさ」で評判のいい、新たな建築事務所と仕事をすることとなる。

その事務所の窓口を担当したのが岡野で、文句のつけようがなく、仕事が的確だった。
無駄口だって、ほとんど叩かない。
黙々と仕事をこなすタイプで、木綿子とは違い「気分」や「雰囲気」で物事を選ぶことをしなかった。
どんなこともしっかりと調べ、慎重に、忘れず、確実に進める。
そこが、何よりも頼もしい。
無口なので何を考えているのか、いまいちわからない男ではあったけれど、最初に名刺を交換したとき、

「……コットン」

と小さく呟いたのが、どうにも印象的だった。
「木綿子」の「木綿(もめん)」をコットンだ、とそう言いたかったのだろう。

「……ぴったりの名前」

岡野は、特に目線は合わせずにそう言った。
洋服屋が「コットン」。言われてみれば、そうかもしれない。

「僕も、建士(けんじ)で……。建物を建てるしかないのかなって」

そのとき、目線を外しながらも少しだけはにかむように笑った岡野の顔を、木綿子はずっと忘れることがなかった。
この瞬間から、本当はずっとずっと好きだったのだ。
顔と、なぜだか喉の奥の方がジリジリと燃えるように熱くなって、何が何でも良い店舗にしようと思った。
それが、不純にも木綿子が「仕事を頑張ろう」と決意した、はじめての瞬間だったのだ。


そして、そんな瞬間をくれた相手と、今は生活を共にしている。

相変わらず岡野は物静かだし、器用で穏やかでやさしかった。
木綿子にも、飼っている猫の“ポン太郎”にも物腰はやわらかいし、「怒る」ということを知らないひとだと思った。
2つしか年齢は変わらなかったが、岡野の方がずいぶんと大人びて感じる。
木綿子はと言えば、29になった今もいつもバタバタと家の中でも忙しない。

「木綿子ちゃん、落ち着いて」

いつからかそれが岡野の口癖になり、やがて岡野のいない場所でも、何かトラブルが起きると、木綿子は岡野のその声を何度も何度も頭の中で再生するのだった。


   ***


「木綿子ちゃん落ち着いて。木綿子ちゃん落ち着いて。……あった!」

無事にモバイルバッテリーを手荷物のショルダーバッグに移すと、「すみませんでした」と頭を下げて、再度ボストンバッグを預け、木綿子は搭乗口へと駆けた。
そして、程なくして離陸する飛行機の中で思うのだ。


「なんでわたし、ひとりで高知に向かってるんだろう……」

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毎年、春か夏には休みを合わせてふたりは国内旅行に出かけている。
春先に、
「高知県がいい」
と言い出したのは珍しく岡野の方で、
「桂浜が見たい。カツオのたたきが食べたい。天然塩も作りたい」
とこれまた珍しく、静かに繰り返した。
木綿子はカツオにしか興味がなかったけれど、特に他に候補もなかったものだから、ふたりは気候のいい5月に高知旅行に出かけることとなったのだ。


けれど昨晩のことだった。
木綿子はきっと、触れてはいけない何かに触れてしまったのだ。


  ***

岡野が仕事の不満や愚痴を漏らすのを、木綿子は聞いたことがない。
けれど1度は共に仕事をし、こうしてひとつ屋根の下で暮らす仲だ。
「彼はもしかすると、今の仕事に心から満足しているわけではないのではないか」
本当を言えば、そんな気がしたこともあった。けれど、それは木綿子にしても同じことが言えた。
もっとも、岡野は「うんうん」とそんな木綿子の愚痴を、いつだってよく聞いてくれたけれど。

名前の通り、幼い頃から「建築士」を目指し、模型や工作が好きだったと聞いたことがある。
木綿子と同じように、岡野もまた夢に一途だったのだ。
学生時代は「一級建築士」を目指していたが、「家族の住むあたたかな家」「まるで家族を招き入れるような小さなお店」を手がけたい、と「二級建築士」の資格で現在の事務所に入ることになる。

しかし、その物静かながら、真面目で信用されやすい性格を買われたのか、いつからか人手の少ない事務所の中で、岡野はクライアントとの橋渡しをするような「窓口」の仕事ばかりを受け持つようになっていた。
そんな岡野の働きもあり、着実にクライアントの心は掴んでいったものの、人の手が足りないばかりに、事務所自体もいつからか話題性のある案件ばかりを手がけることとなる。

岡野は、黙々と自分の仕事をこなしながらも、
「はたして、自分の夢はどこへ消えたのか……」
家族のあたたかな家とは程遠い、宇宙船のような流線形を描く小型宿泊施設を眺めながら、ぼんやりとしてしまうこともあったが、木綿子はそれを知らない。

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代わりに、岡野は自宅で時間を持て余すと、ボール紙を丁寧にカットしながら、小さな家の模型をせっせと組み立てる。

「上手。かわいいね」

暮らし始めた頃、木綿子は木綿子なりにその出来栄えをよく褒めた。
もちろんその器用さには本当に感服していたし、小さい頃に欲しがっていたお人形の家のようで、素直に「かわいい」そう感じていたのだ。
けれど、そんな様子にもすっかりと慣れ、やがて他の暮らし同様、そんな岡野の小さなものづくりも当たり前の光景となる。

そして昨晩。事件は起きた。


仕事で少し遅く帰宅した木綿子は、疲れも手伝って、なんだか明日からの旅の準備がひどく面倒だった。
旅行には行きたい。カツオだって食べたい。けれど準備は面倒なのだ。
できることなら、このままソファで横たわって眠ってしまいたい。
そんな葛藤を抱えながら、ポン太郎の体をぐいっと引き寄せると、とっくに準備を済ませて模型をいじっている岡野の背中に向かって、

「遊んでるなら、手伝ってくれればいいのに」

と呼びかけた。しかし返事が無いものだから、つまらない。

「意味ないよ、建ちゃんもう作ったりしないんだし。営業とか折衝の担当者の方が、今はどこでだって重宝されるらしいよ。そんなに小さいと、ポン太郎も住めない」

「ねえ?」と目を合わせようとしてもポン太郎はいつも通りそっけない。
ふと振り返ると、岡野は振り返らぬまましばらく手を止めて、何かを考えているように見える。
岡野の様子は、いつもとほんの少し違った。

「建ちゃん?」

そして、目の前の道具をそのまま丁寧に片付けると、いつもとさほど変わらぬ物腰で、だけれど決してこちらには目を向けず、

「木綿子ちゃん、明日急に用事ができて、ごめん。申し訳ないけど、高知楽しんでおいで。飛行機のチケットは、テーブルの上。宿は、前に送ったところ。ごめんね、行けなくて」

木綿子は慌てて、ソファから身を起こす。一瞬、意味がわからず上手く言葉が出なかった。
「岡野は旅行に行かない」「チケットはテーブルの上」。
それだけが、頭の中をぐるぐると巡る。
それは、いったいどういう意味だろうか。

「用事って?」

少し声を張り上げて尋ねてみるけれど、そのまま寝室の扉はパタリと閉まってしまう。
—— その扉は、この先もう開くことがないのではないか。
木綿子は、ついそう思わずにはいられなかった。

これまで、岡野に約束を不意にされたことなど、たったの一度もなかった。
まさか岡野が拗ねたり、木綿子を困らせてみせるなんてことも、想像すらしたことがなかったし、やはり、するはずもないように思えた。
突然のことに、どうしたものかとソファに身を委ねて考え込んでしまう。
そして、いつもながら呆れたことに、気がつくと眠りに落ちていて、やがて翌朝ソファで目覚めると岡野の姿はどこにもなかった。

代わりに、木綿子の体には丁寧にブランケットが掛けられていて、テーブルの上には、木綿子が一番好きなクルミパンと書き置きが残してある。

ちょっと、出かけてきます。鍵、忘れちゃだめだよ。
行けなくてごめん。
気をつけて、楽しんできてね。
お土産は、おいしいものがいいな。できれば。

木綿子の気持ちは半分半分だった。

岡野は自分に、なにか「思うところ」があるのだ。
昨日の朝まではまるで普通だったのだから、昼間、あるいは夜のあの数分で、何かがあったのだろう。
岡野が不純な隠し事をするようには、どうしても思えない。
おそらく、自分は岡野を傷つけてしまったか、怒らせてしまった。あるいは、ひどく落胆させてしまった。もしかすると、その全てかもしれない。
予定していた旅行を前日にキャンセルするだなんて、彼の性分からしても、それはとても大きな意味を持ち、取り返しが付かないことのように思えた。
けれど一方で、「お土産」という言葉と、いつもと変わらぬ気遣いが伝わる文面が、気を抜くと膝から崩れ落ちてしまいそうになる木綿子を励ます。
決裂に「お土産の催促」は似合わない。
「おかえり」と出迎えてくれる気が、彼にはまだきっと残っているのだ。

「待って、わたしも行かない。話そう」
昨晩そう言って、すぐに扉を叩くこともできた。
だけど木綿子にはその自信がなかった。
—— 穏やかな彼の何に触れてしまったのか。
それをすぐに理解し、しっかりと詫びる自信がなかったのだ。

今日の1日を、この家で「彼を待つ」ことに費やすことだってできる。
けれど、木綿子は適当なメモ帳の1枚目を破いて、
返事を書いた。

いちばんおいしいもの買ってくるから。
ちゃんと考えてみる、どうしてこうなったか。
(でも、先にやっぱり言っておく。ごめんね。) 
だから待ってて。お願いします。  

木綿子


ひとりで旅行に出かける。高知に行く。
木綿子に残された道は、なぜだかそれしか無いように思えた。

とびきりおいしいものを買ってくる。
そして、食卓で「こんなことがあったのよ」と話しながらふたりで箸をつつき、
「やっぱり行けばよかったな」
と岡野を小さくふふふと笑わせる。
それが、木綿子が今いちばん取り戻したいふたりの日常だった。

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そうと決めると、木綿子はボストンバッグを引っ張り出した。
おしゃれをしたって見せる相手も特になかろうと、着慣れた洋服と下着、充電器の類だけをとにかく詰め込んで、いつものバッグをもう一方の手で抱えると、木綿子は玄関を飛び出す。

「あっ」

急いで部屋の中に舞い戻ると、慌てて飛行機のチケットを小さなショルダーバッグに詰め込んだ。
「木綿子ちゃん、落ち着いて」
頭の中でそればかりを繰り返す。大丈夫。まだ何とかなるはずだ。

ポン太郎の餌を確認すると、給餌器にも充分な量が足されていた。
心配しないよう、岡野がそうしてくれたのだろう。

「よし、行ってくるね」

呑気にしているポン太郎にそう言い残して、木綿子は今度こそ玄関の扉を閉め、ガチャリと鍵をいつもよりも丁寧に回した。

「行ってくるね」

口の中でもう1度呟いて、木綿子は駅へと急いだ。
どうせ巻き戻せないのなら、いちばん良い道を自分で探すしかないのだ。
岡野がこだわり、行きたがった高知県を見てみたい。


そんなわけで、
木綿子は高知空港にポツリとひとり、今立っているのだ。


<つづく>

※ 次回は、いつか公開予定です。

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