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七転八起

"かしこまりました。でもわたしも辞めます。"

片言な日本語のその中にすべてが詰まっていて、
その時僕の中のすべてが途切れた。
資金調達で日本に帰国していた矢先のことだった。

渡緬前(ミャンマーに行くまで)

国内で小売の仕事をしていたころ、海外の誘いを受けた。
”ミャンマーで小売りや飲食の事業を任せたい。”
東南アジアを舞台に活躍する社長の言葉に胸が躍った。
働きぶり、自分という人を求めていると。

兄の死後いかに人生を有意義にするかそのことばかりに執着をしていて、冥土の土産に何を持っていくか。
それは自慢できるだけのありったけの幸せと、何かを成すということそれだけだと信じていた。
成功することが、妻や家族を幸せにすることだと思っていたし、自分が幸せだったら周りも幸せに出来るという自信というより、過信で満ちていた。

今考えれば行く必要がないほど幸せだった。

会社を離れるにあたり、すべての物は置いてくることにした。
僕がいなくても大丈夫だと、みんなが創っていけば良いと。
その言葉の一つ一つが、後戻り出来なくなった自分を惨めにさせる事になる。
必要とされていたのに。
それはまた別の話。

渡緬(ミャンマー)

ミャンマーでの事業は
①飲食事業
②小売事業
③建設重機のレンタル業

だった。
日本に本社がある会社で、ミャンマーに海外初の子会社を設立して3年を迎えたころ、事業開拓をしたいということで飲食、小売りに目を向けていた。
建設重機のレンタルを本業に、販売なども行っている会社で、ODA案件からミャンマーの開発に力を入れる大手建設会社の役に立ちたいとしている会社だった。
ミャンマーはご存知ではない方が多いが、1988年まではビルマという名前で知られている国だ。
映画の影響もあり、ビルマの竪琴などは見た方もいると思う。
植民地時代を経て、イギリスからの独立をした際には太平洋戦争に乗じ日本が助力をし、その後アウンサウン将軍(アウンサンスーチーさんの父)により、日本軍を追い出している。
(当時の日本もまた、戦争犯罪を犯した国としての見方もあった)
今の時代からすれば、弱者を虐げる植民地といった概念を誰しも持っていたことが恐ろしい。
その犠牲になっていた国だからこそ日本を追い出して正解だったし、独立の一途を辿ったことが凄い事だと思う。
その後の日本は敗戦国として復興し、アジアを国際的に牽引する力を持ってアジア諸国との関係性を築いたことから、ミャンマーに行っても日本人ということからとても好意的に接してくれるようになっていた。

デコボコの道路
安心して飲むことが出来ない汚染された水
ヤンゴン川を跨ぐ橋が1本しかなくていつも大渋滞する道路
新鮮な物を届けるために開港されていく港
土壌に捨てられた服の山


挙げてもきりがないようなその全てを日本から来た方によって5年、10年かけて改修していく。
中国、韓国、インド、フランス、タイ、アメリカ・・・
様々な国が来て工事をするのだが、現地の方が日本の技術のすごさを褒めてくれることを誇りに思った。

一方で、小売り、飲食の事業が一向に進まないことに焦りは出ていた。
何のためにここに来たのか。
自分が思い描く未来とは違う方向に戸惑っていたのは事実。
ただ、関わってくれるミャンマー人を大好きになっていたのは事実だし、
自分の性格上、人に尽くすことが大好きな自分は日夜片言な英語とジェスチャーでコミュニケーションをとり、日本語を教え一緒にご飯を食べに行くことが楽しくなっていた。

ミャンマーに来てから結局飲食、小売りの事業は開始されなかった。
会社でのマネジメントの方向性の違いもあり辞めることを決意した。

起業

東南アジアなどで多くみられるのだが、貧富の差から都市部との発展の違いが如実に見れる機会があった。
前会社でも、いろいろなところを見てきたのだが、とりわけ廃棄されているゴミが気になったこと、それと付き合ってきたスタッフの賃金や教育について疑問に想うことが多くなり歴史を知りたいと思うように。

辿れば教育面においては8888民主化運動を機にがらりと変わってしまっている。
1988年、長期独裁政権を変えようと学生や僧侶が民主化運動を起こし、政権こそひっくり返ったものの、その後の法秩序協議会から軍事クーデターが起き、何千人との人が殺された。
そのあとから学生が民主化運動をするような学力を身に着けてるからいけないんじゃないかと考えた政府が、教育をYESかNOで判断できる程度にしてしまったのだ。
民主化がなされた今だからこそ変わってきているが、該当する頃の人間が大人になり親となっている為、ありとあらゆるモラルが成立しない人間も数多くいる。
おかげで交通マナーも考えず、命の重ささえ知らない
車の前を平気で横切るし、ほぼノーヘル軍団だ。
(街中暴走族ばかりだと想像してみてほしい)
死亡したニュースさえ流れないこの国では、ロヒンギャなどの差別、迫害さえも事実が有耶無耶になる。
YESかNOでしか働けないことから、自発的に何かをこなすことが出来るわけではなく、生産性はもちろん低いため、月給平均1万円ほどの給与がベースとなっている傾向がある。
日本や海外に留学し、まともな教育を受けてきた人間ほどミャンマーという国を憂いてきた。
アウンサンスーチー国家元首による民主化活動が功を奏すまで長い長い時間がかかったのだ。
その最中に日本人ジャーナリスト長井健司さんが亡くなられたことが記憶に新しいが兎に角、国を変えようとする賢人と軍事政権とのやりとり、その中でなんとなくアウンサウンスーチーさんが正義だと考える貧困層の構図だった。

多くの血が流れてきて今に至るのだが、前途の通り教育面は変えるべきだと、当初から社長とは話していた。
そのことから日本語学校を創ることを構想にし、この想いに賛同してくれた、現地の日本語通訳の女性がいて。
その彼女の意見から、出資したというのが実情だ。
自国を想い、変えたいと願う彼女は頼もしかったし、そういった若い力が国を変えるのだと、そして少しでも自分の近くにいる人は国際舞台で活躍できるような人になってほしいと願った。
次に古着の事業をした。
忘れることが出来ない路上廃棄のゴミ山。
何かわからないものを食べる牛たち。
それを食べる人。
短命な理由は分かっていたし、路上を流れる水は白く濁っていた。
都市部を離れれば、景色、水ともに綺麗だが、仕事を求め人に溢れているところはやはり汚染も進んでいる。
自分に出来る事は建設ではない。
ODAで日夜取り組む人たちに任せ考えた結果は、古着を売ることだった。
他国のブランドがミャンマーに工場を持ち、生産をしていることもあれば、日本から売れ残った大量の在庫が運ばれることもある。
また、廃品に近い値段で古着屋が買った衣料も東南アジアには多く流れていた。
売れないようなものばかりで、現地で捨てているような現状だった。
適正なものを販売したいという想いで、リペアをし、長く着れるものを販売することにした。
日本のクオリティを称賛する声もあったし、何より破れたTシャツなどを着ない暮らしをしてほしかった。

2つの事業はすぐに結果が出始めた。
そして突然、すべてを失うこととなった。

事業計画を変え、年内に5校日本語学校を出すことを考えていた。
となるとさすがに国内での資金調達をと考えチケットを手配。
当時勤めていた方には現地給与の7倍、といっても7万円だが彼らには高額だった給与を支払っていたこと、やりたくて任せた事業でもあったのでどこかで慢心があったのだと思う。

毎日仕事の在り方やモラル、マナーは大事にしようと話していて。
いつか自分たちが部下を持った時に、草履でオフィスに行かないように、商談の時に対等に話せる自信になるように。
成果主義で行こうと話していたし、落ち込んでいれば肩を叩いて励ました。
一緒に働いていけば、多少なり日本で一緒に働く機会が来ると思っていたし、外国人だろうが日本人だろうが関係なく、肩を並べたかった。
行く先で自分が追いつけないほどの企業主になって、ミャンマーに還してくれれば良いと思って。
だけど、そんな自分の正義は必要なかったんだと思い知ることとなった。

出国前に言った言葉。

”毎日のルーティンワークはここに書いてあるから、これをこなしてね。
もし会社のお金を使う時はここに記入さえしてくれれば良いから。
何も心配ないよ、戻るのは月末だからね。不安になったら電話して。
それまでよろしく頼むよ。”

国内に戻って3日後、電話が鳴った。

”もしもし?”

”あ、もしもし、社長。
スタッフのAが衣料事業のことを続けられないって言ってます。”

”どうしてだろう?”

”続ける自信がないと言ってます。”

”最初から結果なんか出ないから特に責めてないよ。
衣料は日本のモノだから少し価格も違う。
理解されるにはまだ時間がかかると思ってるよ。”

”彼は疲れたと言ってます。”

”それは・・・、疲れたのなら休めばいいよ。
だけど、今だと事業の進みが遅いからもう少しでもやれないかな?”

”かしこまりました。一度伝えます。”


正直、がっかりした。
あれだけ通訳の彼女に想いを話して、任せたことが全く伝わっていない。
国を変えたい、自分の生活を変えたい。
そういった彼女の目は本物だと思った、いや思っていた。
だからこそ、周りにいるスタッフから変えていこうと連日話していたのに。
そして、焦っていた。

そして電話。


”もしもし、社長。
Aと話しましたが、辞めるとのことです。”


”・・・わかった。
仕方ないね、彼には今までありがとうと伝えてください。
それから給与は今月分は全部払うから、それで良いか聞いて。
本当に寂しいよ、最初から一緒にやってきたのに・・・。
気持ちは伝えてもらって良いかな?”

"かしこまりました。でもわたしも辞めます。"

なんで??
頭がかたまってしまって、うまく物事が言えなくなった。
そのあとどんな会話をしたのかさえ、忘れるほどの衝撃だった。

家に帰り、うなだれていた様子を妻が見て、すべてを察したんだと思う。
僕はすぐにでも向かうべきミャンマーに行くことさえできなかった。
人に尽くしたい、人の為にやってきたことすべてが裏切られた気がして、
その感情が憎しみに変わらないように、会うことすらやめた。

その後、日本から帰る約束の期日に社員1人迎えに来ることなく、事業廃止の手続きを知り合いにお願いした。
その夜は仲良くしてくれたミャンマーの友人と過ごし、会社を片づけていた間に日本人の友人と呑み明かし、海外での挑戦を終えた。

気づいたことがある。
いかに自分の価値観や正義で接してきていたかを。
そしてそれが正しくなかったということも教えてもらった。
情けは人の為ならずという言葉がある。
確かに巡り巡って人から感謝が還ってくることはあるだろう。
でも、その情けは本人たちが必要としていることなのかを考えるきっかけになった。
教育や汚染されている現状を変えたいと願う大義は自分の正義、自分軸での情けであり、彼らはすでに心が裕福だったのだと。

今も電車に乗ると思う。
今となりの席の人は幸せなのだろうか。
そしてこう思う。
与えるわけでもなく、ただ笑っていれればきっと欲しい人から取りに来るもんだと。

失敗があるからこそ、今の出会いがある。
恥ずかしく失敗を受け入れられなかった時、失ったモノの多さにただただ打ちひしがれていたけども。
あらためて今ここにいることの幸せを実感しています。

今回、僕の挑戦と失敗を聴きたいと言ってくれた仲さんに感謝します。

仲さんのノートです。
是非、応援よろしくお願いいたします。


沢山の失敗と成功が日々あって、僕以上に苦悩をされている方が沢山いると思います。

ただ心の半分以上を失くしても(兄や叔母を亡くした時)
人生のレールから脱線しても(事業に失敗した時)
大好きなあの人に婚約破棄された時も生きているよ。

だからきっと大丈夫。
今日も僕は笑っていられるので、大丈夫だと思うんです。

サポートしていただきましたら、規格外の花を使ったドライフラワーを活かした活動を広げていきます!!! よろしくお願いいたします😌