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【ショート】肋骨は灰になる 

 「いいいぃぃぃぇえええええぇぇぇいいいッ!!!!!」
 「ッうっふうううううッ!!イエァッイエァッ」
 「あぁっはっはっはぁあああ!!最強だッ!わたしは強いッッ!!」
 おかしくておかしくて腹の底から声を出した。発散しないと頭蓋骨の中から脳みそが飛び出しそうで、しかしそれすらおかしくて笑いが止まらない。
 ドンッ。
 6畳のワンルームを震わせるほどの声量に耐えられなかった隣人が、薄い壁を鳴らす音が聞こえる。
 「うるせッ」
 私が吐き捨てるともう一度壁を叩かれた。音の聞こえたところを拳の側面で強く連打し応える。
 ドンドンドンドンッ。
 「聞こえますかぁああ??聞こえますかぁああ??」
 思わずまた大笑い。相手からの反応はない。その代わり玄関のドアノブを回す音と蝶番の動く引きつった音が聞こえた。倒れたテレビとひっくり返ったローテーブル、その上に乗っていたビール缶の山を陽気に跨ぐ。軽い足取りでキッチンを通り過ぎ玄関へ向かうと、ドアの鍵を開ける。ドアノブを引っ張ったと思った途端抵抗され、元々閉め忘れていたことを始めて知る。再びつまみを捩じり、今度こそドアを開けた。
 隣の部屋の前には私と同じくらいの歳の男が立っていた。半身を乗り出している私を見て、彼は瞬時に視線を逸らした。微かに震える手でガチャガチャと鍵穴を探っている。金属同士が擦れる音が続長いこと続いた。
 やはり愉快だった。ニンゲンを観察する神になった気分で、彼の一部始終を見届けた。
 その手がようやく落ち着いた頃、彼は眼鏡の奥の切れ長な目を思いきり細めて私を見た。
 「ああいうのは迷惑です。今度は通報しますから」
 早口で捲し立てられ面食らった。彼の勇気は称賛に値する。私は思わず拍手をした。手のひら同士がぶつかるとひりひりする。
 すると男は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。そんなに驚かれると嬉しくなる。ついつい口角が上がった。気分が昂って仕方がない。
 「ねえ知ってる?」
 「……え?」
 んふふ、と焦らすようにいやらしく笑って見せる。彼の眉間の皺は何本だろう。
 「肋骨って簡単に折れるんだよ。ボキッて。本当に、みんなが想像するような音なの。ボキッてね。ねえ何で想像出来るんだろう。みんな折ったことあるのかな?私はこの間初めて折ったの。その感触もしっかり覚えてる」
 熱心に語る私を、彼は顔を歪めながら見ていた。カタツムリのように半身だけ乗り出し話していることが無礼に思え、全身を玄関の前に現す。
 その瞬間、彼は目を見開いた。私がパンツにキャミソールを身に着けただけの軽装だったからだろう。そんなことは気にしなくていいのに、と思いながら言葉を続ける。
 「人の体って弱いよね。朝ごはん喉に詰まったくらいでぶっ倒れるの。そしたら心臓動かなくなって、びっくりでしょ?だからこれ習ったじゃんって思って心臓マッサージしたの。そしたらね、何回目かな。ボキッて音がしたの。ああ、折れたなって」
 自然と指に力が入った。男の姿などもうどうでもよくて、素足が乗っているだけの地面に向かって喋る。
 「その音がね、ずっと聞こえるの。ずっとだよ?ずうぅッと今も。いつもいつも気持ち悪い音が頭の中で鳴るの」
 だんッ、と足を踏み鳴らす。だんッ、だんッ。
 「なのにさあ」
 だんッ、だんッ、だんッ。
 息が荒くなり、開いた目が熱くなっていく。
 「なのに……死んだの!」
 ぼやけた視界の中に彼を捉える。どんな表情をしているかは分からなかった。背負っている黒いリュックの色ばかりが目についた。
 「骨まで折ったのに、死んじゃったの。馬鹿みたいでしょ。何の為に肋骨折ったんだよ!ひとがどんな気持ちで……!」
 握った拳の中で爪が肉に食い込んだ。滝のように涙が流れて頬をびしょびしょに濡らす。昂ったものが体中の穴から溢れ出していくような感覚。私は自分のことで精いっぱいだった。
 「すみません、あの」
 前方から控えめな音量で声を掛けられ、腕で涙を拭く。見ると、男が骨ばった手を自分の胸に当ててこちらを見ていた。
 「僕は子どもの頃、たまたま居合わせた人に心肺蘇生をしてもらったことがあるんです。今考えてもぞっとしますが、それがなければ僕は死んでいた」
 男は自分の胸を見下ろしながら、落ち着いた声で続ける。
 「骨は折れても治せるんですよ。でも心臓が動かなければ死んでしまう。あなたの行動は素晴らしかったと、僕は思います」
 彼の眼は、驚くほどまっすぐ私を見ていた。胸に当てられた彼の手の下にはあの時蘇生できなかった心臓がある。悔しい、悔しい。顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃだ。それでも言葉は溢れる。
 「おじいちゃんっ、ごめんね……痛くして。でも、治せなかっ、た……っ」
 栓が抜けたように泣いた。
 男はただ佇んでいた。

 涙が止まった頃、男は私に着替えるよう促した。その通りにするべく部屋に戻りしばらくすると、玄関チャイムが鳴った。出ると彼だった。
 「一緒に食事に行きませんか?」
 奢りますんで、と彼は穏やかな声で言った。
 「……泣いてお腹空いたんで、沢山食べますよ」
 私がおずおず返すと、「僕も結構食べる方なので大丈夫です」と目を細めた。おもむろに名も知らぬ男の胸の中心に手を伸ばす。手のひらに鼓動を感じるような気がして安堵した。
 「さ、行きましょう」
 触れていた手を掴まれる。男は狼狽える私を急かすように歩き出した。
 あの音はもう聞こえなくなっていた。


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