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【ショート】天の川

 気付いたときには強く背を打っていた。その衝撃に一瞬呼吸が止まる感覚は、何度経験しても慣れることはない。先輩が俺をの顔を見下ろして、視線がかち合うとニカッと笑い「今の良かったろ?」と聞く。俺は毎度「良かったっす」と形式的に返す。
 先輩は大将を務めている。実力も経験もない俺が先輩に勝てる確率なんてゼロに等しい。それを分かっていながら先輩は俺を練習相手に選ぶ。聞くと受け身が上手いから、と爽やかな笑みを浮かべながら教えてくれた。技を決める前提ではないか、と理不尽さに顔を顰めたのを彼は知らない。
 マットから立ち上がり、乱れ胸元を直す。筋トレ必須の部活に所属しながら筋肉がつき難い体質なので、線の出ない柔道衣は着ていて楽だった。
 唐突に、先輩が近づいてきて俺の尻を叩いた。
 「ちゃんと食ってるか?」
 「食ってますよ」
 「お前細っこいから投げやすいんだよな。もっと食うんだぞ」
 「はいはい」
 休んだらもう一戦やろうぜ、と言い残し、先輩はキャプテンの方に歩いて行った。俺は、大きな足の裏を踏み鳴らしながら進む背中を見送り、急いでトイレへ向かった。
 そんな日々は先輩が卒業するまで続いた。彼は何故か部活を引退した後も道場へ顔を出し、俺相手に投げ技を掛け続けた。背中に亀の甲羅があればいいのに、と何度思ったか知れない。投げられ慣れてしまった自分が嫌だった。
 そのわりに先輩はあっさりと卒業していった。背中を痛めなくてすむようになった毎日は、思っていたより刺激がなくて驚いた。
 
 大学4年の夏、先輩からLINEが入った。
 「〇日帰省する。一緒に飲まないか?」
 俺はその文面を見てすぐに返信した。
 「いいっすよ」
 高校を卒業して初めてきた連絡に、心が弾んだ。約束の日を待つ間、新しいシャツをとジーパンを買った。前日には美容院にも行き、風呂場で念入りに髭を剃った。
 ようやく待ち侘びた日がきた。集合時間の10分前。
 年季の入った居酒屋が並ぶ通りに、比較的新しい建物が一軒ある。先輩がそこの個室を予約してくれたとのことだったので、昂る気持ちを抑えながら暖簾を潜った。店員に声をかけると、先輩はまだ来ていないようだったので、案内された個室で待つことにした。しばらく携帯の画面を眺めていると、「こちらです」と女性の声がして、からからと戸が開いた。
 「久しぶり」
 酒焼けしたような女性の声が、俺に向かって話しかける。薄いピンク色の乗った唇、睫毛がウニみたいに濃く伸びている。ウェーブのかかった長い栗色の髪を耳にかけ、その人は 白い歯を見せて笑った。
 「驚いたか?」
 「せん、ぱい。……ですよね?」
 そうそう、と答えながらヒールのあるサンダルを脱ぎ、狭い室内に入ってくる。袖口にフリルのあしらわれた白いブラウスにスキニージーンズを合わせた姿は女性的なファッションそのもので、俺の頭はこんがらがった。体の大きさはあの頃のままだし、ファンデーションの下にうっすらと髭のあとが見える。目の前にいる人があまりにちぐはぐに見えて、何も言えなかった。ショックを受けたと言ってもいい。その様子を察した先輩が、席に着き「俺さあ」と話し始めた。 
 「女になりたかったんだ」
 俺の後ろを見つめながら頬杖を突き、続ける。
 「今その途中。親には勘当されたけど、今の自分には満足してんだ」
 爽やかに笑う顔には見覚えがあった。
 「まあ飲もうぜ」
 先輩は店員を呼び、ビールを2つ注文した。俺はそれを一気に飲み干し、すぐに次のものを頼んだ。酔いが回れば何ということもなく思い出話に花が咲いた。先輩も酔っていて饒舌だった。
 気分が良くなって、つい口が滑った。
 「俺、先輩のこと好きだったんすよ」
 先輩が目を細める。
 「知ってるよ。俺に懐いてたもんなあ」
 「違います。ラブの方です」
 「……まじかあ」
 俺の告白を聞いた先輩が俯いて額を掻く。大きなため息をついて血走った目を俺に向けた。
 「俺も好きだったんだよ、お前のこと。女として」
 絶句した。しかし今更な気もした。先輩が俺のことを気に入っているだろうことは当時も何となく気付いていた。自分の劣情を隠さなければいけない苦しさと、触れ合える喜びが混在して、いつも心に靄がかかっていたことを思い出す。先輩は「そうだったんだな」と呟くように言い、言葉を続ける。
 「今でも好きでいてくれてんなら、一緒にならないか?」
 その投げかけに、俺は首を振った。
 「俺は男が好きなんです。今の先輩とは付き合えません」
 「……なるほどなあ」
 「今日は会えて嬉しかったっす」
 「そうだな。俺も何かスッキリしたわ」

 会計は先輩がしてくれた。居酒屋を後にし、街灯の少ない歩道をゆっくりと歩きながら先輩は空を見上げた。
 「いつかまた、こうやって会えるといいな」
 「そうっすね」
 「連絡よこせよ」
 「先輩こそ」
 部活帰りもこうやってたわいもない話をした。
 並んだ逞しい肩が小刻みに揺れるのを感じながら、遥か向こうにある星の束を見つめた。
 

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