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聞き上手な瑠璃

「瑠璃と喋ってると悩み吹っ飛んじゃうんだよね。いつも相談乗ってくれてありがとね」
 詩織が目をきらきらさせながら微笑むのを見て、私はその言葉を否定したくなった。下校中、彼女が控えめな様子で話し始めた悩み事は、彼女の脳内で順番に整理され、解決へと導かれた。私はただその様子を見守り、時に相槌を打っていただけだ。気の利いたアドバイスなど一つもしていない。
 彼女の笑顔につられて口角を上げながら、つま先に当たる小石を密かに蹴とばして歩く。詩織は満足げな表情で、今にも泣きだしそうな暗い空を見上げていた。
「本当に聞き上手だよね。私瑠璃になら何でも喋っちゃう」
 それはよく言われる台詞だった。詩織にだけ特別そうしているわけじゃない。誰に対しても私は受け身で、聞き役なのだ。長年の経験からそういう役が身についてしまい、私は何かを拗らせたように自分の意見を吐き出すことに抵抗感を覚えている。
 だから友人たちの多くは、私を構成している物事の詳細を知らない。そしてそれを寂しくも思わず、気楽なポジションだと開き直っている自分がいる。趣味も、好みも、恋愛経験も、開示しなくても何ら不便はないのだ。平和な友人関係が築けるのであればそれでいい。
「よし!光くんは私のことどう思ってるのか聞いてみる!」
 うんうんと頷いて返す。蹴り上げた小石が向かいからやってきたビーグルに当たりそうになって少しだけ焦った。街中は足早に帰路につく人々で溢れている。所々に飾られたイルミネーションに寒さをを誤魔化されながら、詩織と共に歩を早める。
 角に花屋がある十字路の手前で、詩織が立ち止まった。
「じゃあこの辺で。瑠璃、また明日!」
 言いながら彼女は片手を上げる。花が咲いたような笑みに圧倒されながら、私も唇を弧にした。詩織の後ろ姿が軽やかに人混みへ消えていく。
 私は再び足を進め始めた。
 信号を何度か通り過ぎると徐々に建物が減っていき、代わりに田畑が多くの面積を占めていく。物悲しい歩道を歩きながら、私は無性に彼に会いたくなった。
 瑞々しいオレンジ色のTシャツを着た後ろ姿がアーケードゲームのボタンを真剣に連打する、二度会っただけの男性。不敵に笑った時に覗く犬歯が印象深い。「一緒にやってみる?」と誘われるままにゲームセンターで遊んだ時の、画面の眩しさ、奇抜なキャラクター、色とりどりのボタン。何もかもが新鮮で、心が躍った。カラフルなコーティングの幼稚なチョコレートみたいな二夜の思い出。
 それから彼は、ゲームに没頭しているくせに、私のことを根掘り葉掘り訊いてきた。根元の黒い金髪頭を傾げながら投げてくる質問に対し、私は馬鹿正直に答えた。プライバシーのことなど思いつかない。それくらい彼は熱心で無邪気だった。まるでゲームの騒がしさと一緒に心の根のようなものを曝け出している気分になった。
 向かい風に身震いし、二の腕を擦る。
 今日も彼は温かなゲームセンターにいるのだろうか。UFOキャッチャーやアーケードゲーム、パチンコやスロットもやると言っていた。しかし学生なのか、社会人なのかは知らない。彼は好きな食べ物やお気に入りの音楽は教えてくれたけれど、その素性のほとんどは謎のままだった。
 もう遅いから、と赤い車に乗せてくれたことを思い出す。帰り道の途中だから気にしないで、と。
 ドライブ中、心臓はずっと早鐘を打っていた。
 部活で遅くなると親に連絡していたので、家の近くの小さな公園で下ろしてもらった。じゃあまたね、と見た目に反して柔らかに言われ、安心した気持ちが鮮やかに蘇る。
 連絡したらまた会えるだろうか。
 コートのポケットに手を潜らせる。溜息を吐くと目の前に白く残った。
 葉の抜け落ちた色味のない木々の間を歩きながら、何台か通り過ぎる車を眺める。あの色の車に会えることを願っている自分が情けなかった。
 ふと、後ろで車が止まる音がした。
 途端に担任が最近不審者が目撃されているから気を付けるように、と警告していたことを思い出す。気味が悪くなり、後ろを振り返れなくなった。
 車のドアが開く音が聞こえ、反射的に足を速める。
 コンクリートを蹴る足音が近づいて来て、瞬時に駆け出そうと思った。しかし足がもつれて上手く進めない。すぐに追いつかれて、大きな手に腕を掴まれた。
 思わず出た悲鳴は乾燥した空気の中に頼りなく落ちる。
 捕らえられた拍子に見えた背後の人間は、大柄で黒いダウンを着た男だった。
 助けて!声を上げようとして開いた口をもう片方の手で塞がれる。抵抗しようとしたが力の差は歴然で、とても逃げられる状況ではなかった。
 男に体を寄せられ車の方へ引きずられる。恐怖感に眼球が湿った。
 瞬間。
「何してんだ!」
 鋭い声がして男の手が離れた。どさ、と大きな体が倒れ込む。
 知らない力に肩を引き寄せられ、滲む視界を上げるとあの彼が、眉根を寄せ見張るように男を見ていた。
「こっち」
 手を引かれ、反対車線に停めてあった冴え渡るような赤い車に導かれる。助手席に促されるまま収まり、彼も運転席についた。車は早急に発進し、目的地も不明なまま走り出す。私は体を強張らせながらフロントガラスから見える景色をを呆然と眺めていた。
「もっと早く見つければ良かった」
 彼の声に我に返る。耳触りのいい声色を聞き、思考が現実に戻っていく。礼を言おうと口を開きかけて、目から涙が零れた。冷たくなった手の甲で拭うと、彼がこちらを向く。赤信号で、硬い手のひらに背を擦られた。
「ごめんな。……一緒にプリン食べに行こう。だから元気出して」
 再び車は走り出し、彼の横顔を見ると子犬みたいな表情を浮かべていた。
そういえばプリンが好物だと言った気がする。
「今度海にも連れて行くから」
 海を見るのが好きだとも言った。
「手、繋ぐ?」
 恋人が出来たら恋愛小説みたいに沢山手を繋ぎたい、と語った。
 彼の真っ直ぐな優しさが嬉しくて、ますます涙が出た。
「え、嫌だった?ごめんね」
 焦った様子の彼がコンビニの駐車場に車を停めた。
「どうしたら元気になる?俺何したらいい?」
 狭い車内で彼が私に向き合って眉尻を下げる。何も悪くないのに、申し訳なさそうに言う。
 既に湿っている制服の袖で濡れた目元を拭った。
「名前を、教えてほしいです」
「え?」
「名前、知らないので」
 ああ、言ってなかったっけ。彼はばつが悪そうに後頭部を掻いた。
「澤本かすみ。似合わないって言われるからあんまり好きじゃないんだ」
 かすみ。かすみ。頭の中で反復していたら声に出ていた。
「何か恥ずかしいからやめて」
 彼———かすみが僅かに頬を染める。
「助かりました。ありがとうございました、かすみさん」
 かすみの瞳を真っ直ぐに見て小さく頭を下げると、彼は首を横に振った。
「俺はいいの。君は君の心配しなさい」
「はい。……あの、私自分のこと沢山話したの初めてで」 
 うん、とかすみが真剣な顔をする。シャンプーか香水のシャボン系の香りが微かに香って、この空間がとても心地よく感じた。
「覚えていてくれて、嬉しかったです。かすみさんは不思議です」
 微笑んで見せると、かすみは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。あまりに唐突だったろうか。少し恥ずかしくなる。
「俺は、君みたいな真面目そうな学生が珍しかったから、色々訊きたくなっただけだよ。そしたら思ったより素直で、いい子で、可愛かった」
「からかわないで下さい……!」
 かすみの言葉に顔中が熱くなった。汗のかいた拳を握る。
「格闘ゲームでもさ、相手のこと知らないと勝てないんだ。でもこういう時役に立たなきゃ意味ないよなあ」
「役に立ってますよ。私プリンを食べたら元気出ると思うんです。私の好きなもの友達は知らないけど、かすみさんが知ってくれたので、嬉しいんです」
 え~、と彼は両手で顔を覆った。そして「すごい可愛いこと言うじゃん」とシルバーに指輪をつけた指の間からこちらを窺う。
「じゃあさ、俺には気遣わなくていいから。プリンもエビフライも図書館も海も行こう。恋人じゃないけど、プラネタリウム見ながら手繋ごう」
 彼はよく覚えていてくれた。きっとこの世界で私のことを一番知っているのはかすみだ。私は彼といると聞き役じゃない。息を止めなくても大丈夫なのだ。
「俺もプリン好きだし、プラネタリウムも行ってみたい。あと、君の名前、そろそろ教えてほしい」
 穏やかに微笑むかすみを見て、私は胸の中が温かくなった。
 知ってほしい、もっと。私のこと。
 私の名前は。
「星野瑠璃。気に入ってるので、沢山呼んで下さいね」
 彼が私を呼ぶ声は、流れていく星のような希望を乗せて、私の鼓膜を震わせた。

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