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どこもかしこも玻璃

 部屋に入るなり、「あっつ」と呟きTシャツを脱ぎ出す星野玻璃を見て、思わず唾を飲み込む。
 黒いタンクトップに浮き出た胸筋の膨らみと無防備に晒された太い上腕三頭筋、脇に群生する黒々と爽やかな毛と体幹の厚さ。汗ばみ濡れた首元、くっきりとしたラインを描く鎖骨。短く硬そうな襟足から繋がる滑らかな項。
 窓から差し込む午後の陽を全身に浴びる彼の身体は、ギリシャの彫刻みたいだ。
 立ち尽くしていると玻璃が訝しげな顔でこちらを見て、脱ぎたてのTシャツをベッドの柵にかけた。そのままローソファーの上に胡坐をかく。
「そこらへん適当に座れよ。こっちがいいか?」
 隣の空いているスペースを軽く叩き、首を傾げられる。凹凸の目立つ長い指と硬そうな手の平がただ置かれているだけだというのに目が離せない。
 「じゃあお隣に……」
 夢のような提案に、うっとりとしながら答えてはっとする。気を付けなければ、気を付けなければ。
 傍に行くと、彼の漂わせるシャンプーの香りが鼻腔を擽る。率直に入浴中の姿を想像してしまった。野球で育てた逞しい体はシャワーの水圧にすら負けず、その一滴一滴を力強く弾く。しとどになった彼が短い髪をかき上げ、息を吐くと腹筋が小さく上下する。それから、それから。
「早く座れって」
 痺れを切らしたような声に、一瞬にして現実に引き戻された。
 瞬時にしゃがみ込む。彼の香りを強く感じ、頭の中がじんわり熱くなっていく。ついでに顔中も熱くなり、こめかみから汗が流れた。
「エアコンつけたから涼しくなると思うけど。……お前、茹で蛸みたいな顔してるぞ」
 至近距離で聞く玻璃の低音は、実家の肉じゃがみたいな安心感がある。高校に入学してから3年間ずっと同じクラスだったお陰で、この声は聞き慣れている。あーもいーもうーもどの音も全部聞いてきた。
 そういえば玻璃が二階の渡り廊下で同級生の女子に告白されていたところを見つけて、同じクラスの友達と見守っていたことがあった。玻璃は少し考えるような素振りを見せた後、後頭部を掻き、眉根を寄せて口を開いた。
「俺、好きな奴いるから」
 その地に落ちるような声の重さをよく覚えている。聞いた瞬間、気分が地にめり込んだ。そして玻璃は不穏に盛り上がり始めたクラスメイトの存在に気付き、不機嫌そうな表情を浮かべて校舎の中へ戻って来た。人の山を蹴散らし、「お前まで何やってんだ」と呆れられる。無理矢理笑ったのはバレていなかっただろうか。その後は一緒に下校し、あの子は何組の子だとかそんな話をしたような。
「まき」
 隣り合っていた肩が力強く叩かれ、再び現実に舞い戻された。
 乗っている大きな手がホッカイロを貼っているように熱い。離れないでほしいと願ったそれは呆気なく剥され、代わりにテーブルからリモコンを拾っっていった。
「昨日見忘れたやつ、見るんだろ?」
「あ、うん。でも玻璃見たんでしょ?」
「見たけど」
 言いながらボタンを何度か押すと、テレビからはドラマのオープニング曲が流れ始めた。
 実は恋愛ものはあまり観ない。しかしこのドラマは玻璃が面白いと言うから視聴し始め、見事にはまってしまった。ヒロインは評判通り可愛らしかったし、ライバルとなる友人も儚げで魅力があった。しかし両者が片思いをしているという相手は、コミュニケーション能力の非常の乏しい男で、辛うじて顔が整っているという都合のいい設定だった。ところが終盤ヒロインと付き合いだすと、途端に一途で照れ屋という面が見えてくる。それが何故か玻璃を連想させ、目が離せなくなってしまった。
 玻璃は今までに彼女が二人いた。どちらも年下で、目が大きくて鈴の鳴るような声の子だった。しかし関係が長く続くことはなかった。総じて相手から「大切にしてくれない」という理由で別れを切り出されたらしい。
 今までの付き合いの中で薄情だと思ったことは無いが、恋人だけが知っている一面もあるのかもしれない。もし玻璃が、ドラマの彼のように恋人を一途に大切にするようにになったら、いつでも思い出せるように姿を写真に撮りたい。
 優しい瞳、優しい唇、優しい指先。
 想像の中の彼はホットミルクに垂らすハチミツくらい甘い。混ざれば温もりに安堵し、微睡んでしまうようなとろみがある。ああ、いいな。
「おい、心ここに在らずか」
 頬に痛みが走った。その原因が硬い指先に抓られていることによるものだと察するには時間はかからなかった。
「ごめん、見てるよ」
「悩み事か?」
 玻璃の視線に捕らえられる。その瞳孔の深いところにに招き入れてほしいなあと考えて、頭を振った。
「玻璃、試しにほっぺた触ってもいい?」
「……突拍子もないな」
「試しに!」
 思わず声を上げ、逃走を阻止するように広い肩に腕を回すと、彼は短く息をついて頬を向けてくれた。
「どうぞ」
 心躍らせながら観察する。日に焼けた肌。目尻のほくろ。頬から顎にかけての曲線。膨らんだ喉ぼとけの大きさに眩暈がするようだ。
「……まだかよ」 
 じろりと見られ、咳払いをして気を引き締める。
「では……」
 汗ばんだ手を太ももで拭い、玻璃の頬に近付けていく。あ、そういえば顔に触ったことなんてないや。もう少し近付けたら中指の先がくっつきそうなのに、同じ極同士で反発し合っている磁石のようにそれ以上進められない。
「玻璃」
 助けを求めて名を囁く。
 玻璃は真っ直ぐにこちらを見て、包むように手を重ねた。その拍子に、抵抗していた手の平が頬に着地する。
 途端に心臓が跳ねた。
 昂りを隠すように深呼吸をし、気持ちを落ち着かせようとするも、目の前がじわじわと滲んでくる。玻璃の肌は思ったよりもしっとりとして、汗ばんだ手の平は買いたての吸盤のようによくくっついた。
「玻璃の身体好きだなあ」
 とろけた脳内から零れ落ちてしまった言葉に、玻璃は片頬を引きつらせた。
「お前、暑さにやられたのか……?」
「玻璃のぶっきらぼうなところは好きじゃないけど、玻璃の身体は好きなんだよ。その見た目も声も触り心地も。骨も内臓も愛せそう」
 言いながら胸の真ん中を空いている手の人差し指で突く。
「玻璃の身体は頑丈だけど、この中にあるものはそうじゃない。握れば止まるんだよ」
 そんなの可愛過ぎるでしょ。
 うっとりと語ると、彼は眉根を寄せて後退った。
 実はいつも観察していた。自覚すら薄かったのに、ダムが決壊してしまったように気持ちが溢れて止まらない。
「何だそれ。逆に心配になるわ」
「今少し恥ずかしいけど、いつも通りだよ。玻璃、それよりもっと触らせて」
 再び、今度は太ももに手を伸ばす。大きな筋肉がよく膨れていて、食べたら弾力があって美味しそうだと思った。思わず上唇を舐める。
「美味しそうだってお前……。目、やばいぞ」
 また考えたことが口から流れ出てしまったようだ。布越しに触れた硬さに下半身が疼く。
「僕たち親友だろ?玻璃の身体もっと見せてよ」
 玻璃の顔が歪む。唾を飲むと上下する飴玉みたいな喉ぼとけが愛おしい。摘まみ出して口の中で転がしたい。きっと胸やけするほど甘い筈だ。
 込み上げる衝動のまま彼を押し倒す。
「やめ」
「やめない」
 好き。そのいれものが好き。
 美術の教科書の載っていた、ギリシャの彫刻で自分を慰めた僕が、玻璃の身体を愛するのは必然だった。
 長い睫毛が忙しなく動く瞼に唇を落とすと、顎を押し返され、顔同士が離れた。
「玻璃、玻璃、玻璃」
 まるで夢見心地で名を呼び、再び顔を近付ける。
 彼は額の汗を一粒零すと、絞り出すような声で言った。
「お前なんか親友じゃねえ」
 その時の僕はどんな顔をしていただろう。
 思わず飛び退き、床に跪いて何度も謝った。しかし玻璃は一度もこちらを見ず、僕を追い出した。
 炎天下。玻璃の部屋の窓を見上げる。
 クーラーの利いた部屋で熱くなった身体は、照り付ける日差しの下指先まで冷えていた。
 どこからともなく蝉の声が聞こえる。
 こんな明るい日に、僕は唯一の親友を失ってしまった。
 一度の過ちはそんな事実だけを残し、高校三年生の夏にこびり付いた。

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眠れない夜に

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