塾や予備校に一度も通うことなく現役で早稲田政経に一般入試で合格した話②

中学生になり、初の定期テストが始まった。ここで私は少し挫折することになる。中学1年生1学期の期末テスト、約180人中、44位。

人と競争することは大好きだと既に書いたが、あまりにも自分の能力を過信し舐め腐っていたのである。30くらいには入るかな〜なんて考えていたから自分でもびっっくりした。1位は小学校からの同級生で成績万能、容姿端麗、運動神経抜群と前世はブッダか?みたいな子が取っていったので悔しいとも思わなかった。

別に44位も悪くない成績だが、その頃高校1年生になっていた姉はちょっとうちの両親のDNAからは考えられないくらい勉強ができず、最低成績180人中145位というあり得ない成績を残し海外へと飛び立っていたため母の私にかける期待も大きかったのである。姉貴の馬鹿っぷりは友人からも非常に好評なエピソードが豊富に揃っているのでいつか書けたらいいな。

この辺から私の数弱ぷりが露呈していく。正直、そろばん2段を取っていながらなんで数学が出来ないのは①で熱弁したそろばんの有益さを自ら否定するようだが、私はとにかく図形がダメなのだ。代数(計算系)は満点だった。この後私は高校1年生まで続く数学との戦いでことごとく破れ去っていくこととなる。

その理由は、20歳の夏にあるお医者さんと話している時に、「アファンタジア」という、病気ではないがある特徴を持っていたことが原因であるとあっさり発覚する。アファンタジアの特徴として、人の顔や物体が脳内で想像出来ないのである。親しい友人や家族の顔どころか自分の顔ですら、「目を瞑って思い浮かべろ」と言われるとなんとなく髪型や輪郭は浮かんでもはっきりとした顔の立体的なイメージがどうしても思い浮かばない。でも直接その人を見れば誰であるかは分かるため相貌失認ではないのだ。私の場合は、コップ、パン、ハンカチといった簡単な作りのものならなんとかイメージがつくのだが、幾何に登場するような複雑な三次元の立体や人の顔が特にダメである。興味のある人は調べてみてください。結構面白い症状です。

しかし、その欠陥を補うためなのかは分からないが私は文字の記憶に異様に強い。大学受験の選択科目は世界史だったので、ぶっちゃけ大学合格の要因は②にしてほぼここにあると言っても過言ではない。ノートや参考書を何度か見て、そのままどこに何が書いてあったのか頭の中でページをめくれてしまう。完璧ではないが、おそらく私はフラッシュメモリーを持っている。にしてもある程度勉強はしたしそのノウハウはあるので高校のところで詳しく述べる。

理系科目では大変苦労したが所詮中高の文系科目なんて暗記でしかないため、44位以上の順位を取ることはなかったが60位くらいの可もなく不可もない低空飛行を続けながら無事中学を卒業。高校に入学した。

私が通っていたのは小学校から大学まで行きたければそのまま行けてしまうエスカレーター制だったのだが、ここで私は海外に行くという決断をする。家庭の事情などその経緯は少々複雑なので端折るが、結果から言うとこの決断は進学という意味では+、学生生活という観点からはーに作用することになる。

私が進学したのは在外教育施設と呼ばれる、もともと駐在員の子弟のために作られた学校であった。海外の日本人学校は義務教育まで、つまり中学までしかなく、その後も親の駐在が続く子供は日本に1人で帰国するか現地校に入るかのシビアな選択を迫られる。そのための第3の選択肢が在外教育施設なのである。そもそもの生徒数が少ないことも手伝ってあまり多くの情報が出回らないため、在外教育施設の実態は謎に包まれている。その特殊っぷりはめちゃくちゃ面白いが今回は関係ないため省く。

一応高校入試なるものを受けたのだが在外教育施設の偏差値は全く高くないため、それなりの進学校に通っていた私は中1の頃から週2でイケメンの先生に会うためだけに通っていた個別塾にいつも通り通うのみで特に対策もせず入試は楽々パスした。

この学校の(唯一)素晴らしかった点は、全寮制であるため24時間体制で教員が常駐していることであった。つまり、毎日ではないにしても2日に1回は各教科の先生が出勤しているため、わからないことがあればすぐに質問できるのである。携帯電話の持ち込みは禁止、学校の敷地から出れない、という異様に厳しい校則があったため(スマホは高2で持ち込み2回バレて尋常じゃない量の反省文を書かされた)、高1のまだ校則を愚直に守っていた頃の私はとにかく暇だった。その暇が合格の第2の鍵を握った。

運動もキライで大して仲の良い友達も出来ず暇を持て余していた私はとにかくよく勉強した。同級生は基本的にめちゃくちゃ馬鹿だったので、中学の頃には取れなかったトップが取れるかもしれない!という思いでよく頑張ったと思う。結局3位が多分マックスだったけど。もともと勉強自体は嫌いではなかったから、馬鹿とだらだら遊ぶよりも自分が知らないことを理解できるようになる方が楽しかった。

高1までは理系科目が続き泣きながら勉強したが、赤点をとることもなく無事高校2年生になった。

文理が分かれ、ついにめろんぱんなちゃん無双時代の到来である。



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