祖父の死に寄せる言葉も気持ちもないけれど
2023年11月下旬、祖父が亡くなった。ミネソタ州にある自宅の台所で脳出血に見舞われ、そのまま昏倒し血溜まりができていたらしい。数日後には脳死状態となり生命維持が続行終了となった。
祖父を尊敬していた父は、当たり前だが大きく悲しんだ。そのため、これを機会に一度、家族全員が集まるメモリアルサービスをアメリカで開催する運びとなった。父方の祖母が10年以上前に亡くなった際は、何もイベントがなかったため、今回は盛大にやろうというわけだ。そんなこんなで、私はイリノイ州の郊外に一週間ほど滞在している。
とはいえ、正直なところ私は祖父の記憶がほとんどない。本土に訪れたのは、赤子だった頃と8歳前後の時。何を話したかはおろか、そもそもどこで何をしたのかすら記憶がおぼろげだ。
明確に残ってる記憶はいくつかある。
ソリティア(クロンダイク)で遊んでいて手詰まりになったのを見て「カードを動かす時は裏側になっているカードを解放する方法を探すとうまくいくんだよ」と言ってくれたこと。
祖父が考え事をする時には手をテーブルの上に置いて、ピアノを弾くように順番に指でテーブルを叩いていたこと。
外でキャッチボール中にチンポジを直していたら「ズボンの調整は終わったかい?」と聞かれて私が慌てて「終わったよ」とズボンを直す仕草をごまかしたこと。
神秘体験をした次の日の朝、部屋中懐中電灯で照らして「かぼちゃや人の顔は浮いてないから安心しなさい」と言ってくれたこと(私は本当に見た!と否定したが)。
昔仕事で使っていたコマンド式のコンピューターを見せてくれたこと。
話が長いけど、優しくて体の大きいおじいちゃんだった記憶はある。
まあしかし、アメリカで祖父と頻繁に関わり、家族関係を築いていた人達と比べたら私の思い出は「よく知ってる他人」程度のものだ。祖母の時もそうだった。三親等と関係は近いはずなのに、正月で数回会った親戚ぐらいの距離感。残念ながら悲しさは一ミリも感じられない。せいぜいほかの人が悲しんでいることへの理解程度だ。だって会った時間が短いんだもの。
それでも人が一人亡くなって、メモリアルサービスに来ないかと父に誘われたので行くことにした。家族だし、けじめはしっかりつけたいし、でも何より本当は渡航費は出してくれるから。終わったら旅行も兼ねようとのことだったので、軽い気持ちで渡米した。
ちなみに、しつこく「メモリアルサービス」と表記しているのは祖父が葬式(funeral)を望まなかったためだ。どうやら宗教や権威のたぐいが嫌いだったらしい。そのため棺を運んで牧師が弔辞を読み上げるといった儀式は避け、故人のユーロジー(賞賛する演説)の回し読みや、ゆかりの地を訪れるといったイベントを週末をかけてするメモリアルサービス、をやろうというわけだ。
メモリアルサービスは良いものだった。終始和やかな雰囲気で進行したし、内容も長すぎず短すぎずちょうどいい。祖父の遺灰を撒く予定地に一切許可を取ってなかったのは、さすがにドン引きしたけど…(*1)。
二日目のスライドショーでも祖父はにこやかに笑っていた。彼は貧乏な生まれでありながら、聡明で努力家の彼はいくつも奨学金を得ていた。それでも大手IT企業への切符を手に入れたことで、大学には行かなかったようだ。企画や社内教育を手がけ、レクチャーもした。趣味は木工と彫金、英語を使ったゲームのデザイン。多くの本を読み、多くのアイデアや建築のスケッチも残していた。イリノイ州のレオナルド・ダ・ヴィンチを名乗れるかも。
スライドショーの中に私の写真は数枚あった。私は悲しく、楽しくなさそう顔をしていた。ケーキを前にはにかむことはあっても、どこか陰のある雰囲気をまとい続けていた。
そもそも私は大学入るまで、人生を楽しいと思えたことがなかった。誇張ではない。簡単に言ってしまえば、自分には子供らしい子供時代が少なかったのだ。
それに引き換え他の人はよく登場した。義弟も、従妹たちも、もちろん父や叔母、そして曽祖父母も。日本で育った私と兄だが、それでも何度か渡米していた兄はポツポツと写真があった。家族らしいな、と思った。
父には、いろいろと言いたいことはある。複雑な問題を抱えている息子と向き合わず、きっちりお金だけ出していたこと。明るく外向的な兄ばかりアメリカに招いたこと。母をメモリアルサービスに呼ばなかったこと(なんなら母はスライドショーにすらいた記憶がない)。家族と父親に強い執着から、私を都合良く家族の輪に入れたり出したりして、家族関係のおいしいところだけ取って、またこうして招いていること。
まあ……そうね。
要は気に食わないんだ。そういうのが。
人間を雑に扱っている自覚がないのが。
ただ、少なくとも祖父はそのような人間ではなかったように思う。親類縁者に多少理想化されているにしろ、少なくとも彼の印象が朗らかで人当たりが良い、聡明な人物というのは揺らがない。
彼が残したメモや詩、写真のたぐいは父がせっせこ一人でスキャンして電子化している。手伝ってもらえなくてとってもかわいそう。近くにいる妻と義弟がどうして手伝ってくれないのか、きっと考えないのだろうな。なにがともあれ、執念のアーカイブが出来たら見てみたいところではある。
祖父は厭世的で、隠遁者(hermit)を自称していたらしい。工房にこもって、創造的な作業に没頭するのが好きな職人体質だったとか。
私はそんな立派なものではないし、努力も下手だから、彼と同じと言うつもりはない。
それでも彼は宗教や権威を嫌い、人当たりは良く朗らかで、いつも自分の芯を、柱を持っている人だった。私の精神性と似ているものは感じずにいられないのだ。祖父の話を聞いていくうち、私が引き出しきれていないだけで、祖父、ポールは自分の中に生きているような気持ちが強くなっていった。
家族としての繋がりがほとんどない以上、殊更そこを強調されたところで的外れで気分悪いだけだ。しかし、私は彼に対する愛着も執着もないが、精神的なつながりは感じることはできた。他人に言われたり、一緒に写ってる写真を見せられて宿るものではない。歴史上の人物の思想や精神性に共鳴した時の、少し身近な形だろうか。
祖父も、私にそう思ってもらえることをきっと喜ぶんじゃないだろうか。私がそう思うのは身勝手だろうか。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?