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『完全無――超越タナトフォビア』第四十一章

さて、「世界の世界性」としては、因果関係という金科玉条は成り立たないし、確率論のサイコロも弾き返してしまう、ということが予想された。

現代物理学の棟梁たる量子力学における量子論的観察、そしてその観察より導き出されるところのオブザーバブル(その系の状態としての物理量)について、よく引き合いに出される文言であるところの不確定性原理や、単に量子の振る舞いが確率的であるかないか、奇妙であるかないか、といった議論などは、前-最終形真理的な通過点として念頭に置きつつも、最終的には、ただ「ある」ということに世界性が集約されている、という【理(り)】に全身全霊で気付くべきではないだろうか。

精確には「ある」だけであり「世界性が」という主格もあり得ないし、人間がついうっかり口に出してしまいがちな「すべてが」という主格もない。

「すべてが」ということばを「世界の世界性」の説明として無頓着に持ち込んでしまうと、どうしてもその「幅」のあるもの同士の対応関係を自動的に、つまりは頽落的に布置させてしまうことになるのである。

「すべてが」という主語に対する述語としてたいてい用意されるメニューは、有限もしくは無限、もしくは無であり、有限と無限を対義語連関とするコース、無と無限を対義語連関とするコースなどという、愚かで大らか過ぎる前提が目の前に差し出されてしまうことになるのである。

要するに、主格や主語という罠によって、「世界の世界性」スケールにおける議論ではなくて、人間的スケールの言語ゲームに陥ってしまい、根源的な、いやその根源を超越したところにある【理(り)】からは程遠くなってしまう、というこの作品ではすっかり顔馴染みの、いつも通りのオチに直面することになってしまうのである。

任意のある一点から任意のある一点、という文言における「任意の」という条件を、そのまま「世界の世界性」において適用することは、単に「世界の世界そのもの性」に対してマジックを仕掛ける行為であり、人間からすれば白魔術なのかもしれないが、「世界の世界性」の側からすれば、その魔術は大変にどす黒い。

「幅」というもの、すなわち何らかの大きさをあらわすところの概念を、知的に操作する働きはすべて無駄なのである。

人類が育み続ける科学の漸進的発達、その学は細分化され、細分化は帳尻合わせの体を取りつつ、新規の専門用語を次々とこしらえ、専門用語が専門用語を媚態的かつ強圧的に呼び寄せ続けるが、その実、「世界の世界性」の輪郭は茫漠の度をただ増すばかりである。

精密度と再現性と反証可能性をクリアしたこの仮説のこの論こそが正しいのだ、いやあの論こそが正しい、いやいや、両方とも過誤である、いやいやいや、両方とも正しく、まさにそれらこそが科学的正義だ、まさに科学的真理は絶対であり、しばしの間は覆ることなどないであろう、などと人間が人間のためだけに、物事の法則性の公理を連綿たる老舗として、その経営を庇護し続けることばを至る所で宣言しようとも、そして、公理の真理性を時代時代において細分化された、人間にだけ特有の知識を真の決定打として結論付けようとも、真理のさらに奥にある核、すなわちどのようなことばでも捉えることのできない【理(り)】のその匂いを嗅ぐことはできないであろう。

決定論こそが正しいのだ、いや非決定論だろう、といったような人間同士の対決もあるだろう。

いや、自由意志はあるよ、いやいや自由意志はないよ、といいったような対決もあるだろう。

いやいやいやいや、すべては中道であり、それだけが答えなんだよ、などという中間を狙う日和見的な、曖昧な定義を必殺の武器として着き付ける輩も時代時代で現われることだろう。

あらゆる学、つまり人間の知識は所詮「人間的スケール」における定義、基礎付けに過ぎないのである。

もちろんわたくし、つまり狐族も地球における存在者のひとつでありますし、マジョリティである人間との社会生活において、科学の恩恵には浴しておりますし、人間にとっては有意義かつ効率的な科学者の営為を地中に埋没させるべき、などという小賢しい思惑は一粒も持ち合わせておりません。


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