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『完全無――超越タナトフォビア』第百三章

愛、そう存在者と存在者とが愛し合う、というささやかなる領分を超えて、愛そのものとなって自愛すること、それこそがまさに世界そのものの爆破、得体の知れぬ損壊、「世界の世界性」としての完全無の不可思議なる亀裂である。

完全に無である、ということが「性質」になり得るのかい? という愚問は却下しよう。

なぜならば、完全に無であることを表現することそのものをすべて消去した状態で、チビたちや読者の方々に思想を開陳することは、わたくし詩狐(しぎつね)のポエジー溢れる御手をもってしても、その手に余る難行である、ということが創作物以前性として前提されているからである。

完全無とはあらゆる表現者、にとっては聖なる薄汚れた呪いの革命ぱんぱかぱーんなのだ。

世界そのものに臨む愛とは、不可能なはずの一体化を成し遂げたい、とい古代ギリシア哲学的なエロスの欲動の発動ではない。

時空を超越した自己へと自己を放り投げることで世界そのものを現出させるような黒魔術的な非道徳的な美しき濫觴、というわけでもない。


いいだろう。

わたくしくつねくんは、とある人間の男性の手の指三本でつくられたきつねのかたちとなって、とある女性の手の指三本でつくられたきつねのかたちと真向い、指先と指先とが触れたその瞬間に世界そのものが光で満ち溢れたという想い出をも完全なる無へと還そうではないか。

情状性に満ち、感傷性を誘うような記憶の場など、思想には非効率的だ。
 
かつてそのとき、わたくしきつねくんは、「世界の世界性」という母胎を自ら切り裂いた神話的英雄として、つまり原罪として産声を上げたのだから、その声を供物として完全無へと捧げることで、想い出そのものをありありと無へと滅するのがこの章の役割なのだろう。

だがしかし、ささやかなる領分における愛について語ることは、悪くはないだろう。

そのような小さな愛がニセモノの有の界隈で、確かにそこには有的にありありとあって、わたくしきつねくんは因果関係を伴って誕生したのだから。


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