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『完全無――超越タナトフォビア』第五十八章

完全無-完全有の完成形としてのパズル(それは粗大でも微細でもない)の(当然、メタファーとしての)ワン・ピースを、人間たちは全歴史的時空の中で選ばされている。

つまり、世界樹のように分岐すること無き「世界の世界性」に「おいては」、なんらの自由意「思」も自由意「志」も完全無-完全有的に、存在し得ない。

完全無と完全有との兼ね合いから「世界の世界性」を眼差すこと、それを認識論的・存在論的・形而上学的修行と呼び習わしてもよいが、ともかく、「世界の世界性」に「おいては」、自由意思も自由意志も、根源的問いへの解答権を簒奪されたものとして、快く放棄しなくてはならないのである。

反常識的な、言わば不条理な手順を踏むことで、人間たちは「世界の世界性」へと漸進的ぬに近付くことができる。

その際、人間たちの経験則を支配する記憶という強迫観念に対して、ヒステリックに依存していては先へは進めないことに注意すべきかもしれない。

人間の記憶というものの所在が、脳にあろうとも、全身体にあろうとも、身体外にあろうとも、モノとコトの交合的な流れを記すべき場というものが、一般的な歴史的時空においてが存在するとしても、「世界の世界性」においては、存在し得ない。

記憶と言えば、美しい記憶、愛すべき記憶もあろう。

複雑ゆえに単純になれない人間たちにとって、それは最も崇高かつ悪魔的な属性のひとつであるかもしれない。

なぜなら、美とは複雑性を転覆するシンプリシティの顕現であり、人間たちを最も強く繋縛するのは、最も単純な記憶であるからだ。

しかし、世界と言う存在に対する究極の【理(り)】を窮めるためには、幻力的な神経回路網信仰を踏み台として、記憶という欺瞞を、劫火の如く訴追し続ける無(ただし、この段階における無とは、ニセモノの無であるが)の切れ切れとしての「ある」、という痛ましき至福と渾然一体化することが求められる。

そのために、人間たちは、前-最終形真理の先の完全無、すなわち完全有を見据えるための装備を固めるべきではないだろうか。

あらゆる記憶が、主体に対して直接的な(つまりは、包むべきもの無き一者そのものの自己展開的)知覚によるものであろうと、主体に対して事後的な反省による「思い成し」であろうと、自己に先立つイデアの射影としての表象であろうと、「世界の世界性」における完全無-完全有という場無き場に「おいては」、すべては完成形としての「ある」だけであり、あるモノや、あるコトの世界内における散在が連続的であろうと、離散的であろうと、相関的であろうと、逆相関的であろうと、なにものかが「ある」というものに生成変化する、ということはないのだから、「ある」ということをアプリオリに、またはアポステリオリに認識せざるを得ない時空という場との齟齬すら、完全無-完全無という場無き場もあり得ない、ということである。

世界には差異はない。

反省、反芻などの事後的な思惟のすべては、痕跡を残す場を持たない、という意味合いにおいて、あらかじめ無効である。

世界には幅がない。

記憶にがんじがらめの人間たちは、記憶の分散と記憶の蒐集に精を出す。

それら人間たちの宿命は無力ゆえに愛そのものに似る。

愛が記憶とそっくりである限りにおいて、愛というものは、愛すべきものなのかもしれない。

知を愛することが哲学であり、その対義語が非哲学であるとするならば、この作品が標榜するところの非哲学とは、非哲学である限り愛という宿命に絞扼されている。

愛は抹殺しなくてはならぬほどに、愛おしいものであり、愛そのものにはなんらの宿命はない。


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