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さよならメラビアン

「メラビアンの法則」と言われる、広く流布された嘘がある。言葉よりも態度、言語より非言語コミュニケーションがモノを言う……という内容で、マナー講師が大真面目に教える場面に出くわしたこともある。

言葉よりも態度で伝わることのほうが多い……これが本当なら「明後日の午後七時に駅前広場に集合ね」と言うより、態度とジェスチャーだけで同じ内容を示したほうが伝わる計算になる。まさかね。言語によるコミュニケーションを舐めすぎだよ。伝達のために磨かれてきた手段が、そんなに軽々と駆逐されるはずがない。

とはいえマナー講師が言いたいことはわかる。「ごめんなさい」という言葉よりも、申し訳なさそうな態度のほうが人の心に響く。「ありがとう」と仏頂面で口にするより、笑顔のほうがもっと伝わる。そういう話なんだろう。だから多くの人がこれを信じ、講座で堂々と教えてしまうのも仕方ない気はする。

言葉「だけ」が通じても、それでわかり合えるわけじゃない。そういう体験を時々する。

母は服が好きで、昔アパレル店員をしていた。「オシャレが好き♡」などという甘い愛ではなく「服はすなわち自分、命を賭けろ」くらいの気迫だ。自分だってファッションを楽しむけど、命を賭けた覚えはない。小さい頃は、話題が服に及ぶと急に母と話が通じなくなる瞬間があって怖かった。

地元の量販店の子ども服売り場で「これ可愛いなあ」と私が言う。「でもここで買ったら、他の子とかぶっちゃうかもしれない」。母はそれを聞いた途端、目の色を変える。「だったら『これは私のもの、私の服よ!』って気合で着るの、自分のモノにするのよ!」そんな反応は予想だにしていなかった自分は、気魄に押されて絶句し、その服を諦める。

言ってる内容はわかる。でもわからない。なぜ服を着るのにそこまでエネルギーを傾けるのか、日頃は温厚な人がなぜああも豹変するのか。言葉さえ通じない人ならまだ諦めがつくものの、なまじ言っている内容はわかるだけに、わからなさが増してしまう。

母もまた哲学を学ぶ娘を前に、そういう感情を持っているのかもしれない。自分の書いた論文を見せると、母はどうにか読もうとし「難しい」と言う。「でも他の人の書くのに比べて、いくぶんわかりやすい感じがするわね」と後からフォローする。文章はすべて日本語で書かれているし、難解にならないよう努力はしているけど、それでも限界はある。

自分がサルトルの「地獄とは他人である」を引用すると、意味がわからない母はギョッとする。「地獄」も「他人」も普通の単語だけど、だから即この文が理解できるかって言うと無理だ。それでも諦めたくはないので、苦し紛れにどうにか説明する。「他人の眼差しは、自分のことを決めつけてくる。私は見られた瞬間に、何者かとして固定されてしまう」。母は曖昧に頷く。自分は幼い頃に、子ども服売り場で絶句したことを思い出す。

手を尽くしてもわかり合えないときには、いっそ最初から通じなかったら諦めもつくのに、と思う。言葉に過大な期待をし過ぎなんだろうか。「話せばわかる」は多くの場合とおらない。デマを信じている人に科学的に反論すると、かえって持論を強く信じるようになる──そんなデータもあったっけ。言葉が通じているのに、通じているからこそ分かり合えない。理解の壁は言葉の壁よりずっと高大だ。

お互いに理解できないのは、どちらかが悪いわけじゃない。「わかってくれないなんて愛情が足りない」とか「理解できるように説明してくれないのが悪い」とか言うのは子どもじみている。わかってくれる=愛情とは限らない。愛していれば理解できるなんて、そんな簡単なことどこにもない。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。