見えぬけれどもあるんだよ
久しぶりにまたポール・オースターを読んでる。『孤独の発明』、初読がいつだったかは忘れた。本棚の取り出しやすいところにあって、ときどき取り出しては読む。そういう類いの本としては新入りのほうだ。二十歳を超えてから読んだはずだから。
他に同じ場所にあるのは、11歳で初めて読んだ『草枕』、16歳のとき出会った『チバユウスケ詩集 ビート』だったりして、ほぼ10代に集中する。だからどうってことじゃないけど、やっぱりティーンエイジャーの頃に触れたものは、誰にとっても特別なんだろうか。
『孤独の発明』には、こんな文章が出てくる。
表に現れなかったことは、なかったことと同じだ。人はよくそう言う。
思っていることは言わなきゃわからない。言葉にしないと態度に表さないと、なにもなかったのと同じ。たとえば道に倒れている誰かがいて、気の毒だ、できたら助けたいと思ったとしよう。でもできなかった。急いでいたのかもしれないし、助けるだけの余裕も知識もなかったのかもしれない。理由はどうでも構わない。内心でなにを考えていたとしても、それは黙って見捨てたのと同じだ。
表に現れなかったことは、あったことにはならない。「ないも同然」ではなく、厳密に「ない」のだ。どんなに助けたいと思ったところで結局、助けなかったなら、それはつまり助けたくなかったのだ。見えないものに意味はない。
……本当にそうなのかなあ。
いま同時並行で読んでいる本には、俗に植物人間と呼ばれる人たちが出てくる。意思疎通の方法を持たず、だから意識もなにもないと見なされている人たち。周囲からはただ寝たきりにしか見えなくて、こういう患者はたいてい、単なる生きた身体としての扱いを受ける。
単なる生きた身体。果たしてそうだろうか。『語りかける身体 看護ケアの現象学』の中ではそこへの違和感が語られる。患者はただの身体なんだろうか、ほんとうに意識や考えや感情や、人間らしいものを失っているんだろうか。
著者は看護の現場に身を置いた人間として、そういうスタンスは取らない。というより、取ることができない。患者と看護師の間には、傍から見るとわからなくても、確かに「コミュニケーション」のような交流が生まれている。それは看護師の思い込みとか、勘違いと語られがちだけれど、現場の声を拾い集めていくと、どうもそうは言いきれない。
患者は、わずかなまばたきや体の動きで、ケアする相手になんらかの意思を伝えようとしている。場合によっては「笑う」こともある。これは客観的に見れば「笑ったように見える」でしかないけれど、近くにいて見ているナースにはこの表情が理解できる……そんな話。
そこにある動きは「表に出た」とも「出ない」とも言いがたい、ごくわずかな意思表示でしかない。意思表示であるかどうかすら怪しい。でも患者をずっと近くで見ている人間には、その微妙で繊細な違いが「わかる」。
確かにいま笑った、とか、枕はこの位置だと嫌みたいだ、とか、繊細であいまいな違いから相手の意思を推し測っていく。これは「身勝手な推測」とか「思い込み」とか「勘違い」とばかりは言い切れない。
見えないものは、単に受け手に「見る力がない」だけじゃないか。そう考えることもできる。
震えもしない、寒いとも言わない人でも、よく見ると唇が青く変色しているかもしれない。どんなに他人に知られまいと思っても、表に出てしまうこともある。そのわずかな表面の揺れ動きから、わたしたちはずっと他者を理解してきたんじゃないか。しようとしてきたんじゃないか。
見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ……。
昼のお星は目に見えぬ、と言ったみすずを思い出しながら、二冊読書中。
参考文献
ポール・オースター『孤独の発明』柴田元幸訳、新潮社、平成27年。
西村ユミ『語りかける身体 看護ケアの現象学』講談社、2021年。
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