賢くなりたい時期だ

たぶん「正しい」よりも「賢い」のほうが好きだ。「強い」より「美しい」より「賢い」が好きだ。

「賢」は「小賢しい」というときにも使われて、スノッブで頭の回転が早い、おいしいとこ取りの嫌な奴、なんてイメージもある。賢さは地味に不人気だ。強さほどわかりやすくないし、美しさほど感情に訴えない。それでも、自分は賢さに憧れる。小賢しいという意味じゃない。本当に知性が働いていて、正しい理屈と正しくない現実とを、どうにか折り合いつけていく、地に足の着いた賢さ。

甲子園を巡る議論の紛糾が続いている。「炎天下でスポーツをさせるのは危険だ」という意見を始め、「吹奏楽部に応援団の役割を振り当てるな」「女子マネージャーに重労働(部員全員のお世話)をさせるな」という声も上がる。これらの意見はどれも真っ当に見えるけれど、今に至るまで事情は変わっていない。

自分も中学校の頃は美術部だったから、中総体になると応援に行かされた。吹奏楽部も一緒だった。別にスポーツ観戦が趣味でもなんでもないのに、部活の時間を削って応援練習をして、好きでもない応援歌を歌った。あの時間を他のことに使えたら、どんなによかっただろう。

本当は、美術室で絵の模写をして、絵画の本でも読んでいたかった。夏の日差しの下で、慣れない服装(ミニスカートや袴姿)を強いられながら運動部を応援をする意味なんて、今でも見い出せない。美術部なら絵を描いていたらいいし、吹奏楽部なら自分たちのコンクールの練習をしたらいい。そんな単純なことが、スポーツの祭典を前にすると通じなくなる。

「そういうものなんだから」と人々は言う。「そうやってずっと続いてきたんだから、抗っても無駄よ。夏の炎天下は試合できるような気温じゃないけど、でも気合でやるのよ。野球部は丸刈りって決まってて、応援するのは吹奏楽部なのよ。外に出したせいで楽器が傷んでも、甲子園のせいでコンクールに出られなくっても、誰も気にしない。みんな伝統的な甲子園が大好きで、それが見たいんだから」

……私たちは、もっと賢くなれないだろうか。いますぐ甲子園のあり方を変えることはできなくても、せめて「吹奏楽部と野球部の真夏の感動ストーリー(※)」を称賛するのを止めて、むしろその構造を問題視する風潮を作っていけないだろうか。

何が正しいかと言われたら、丸刈りも女子マネ重労働も文化部による応援も、すぐに廃止するのが合理的で正しいと思う。でも、そう言えば反発を食らうのは目に見えている。

だとしたら、その問題点を丁寧に伝え続けたい。もはや日本の夏は、太陽の下で試合ができるような気温じゃないんだと。文化部は文化部として活動する権利があり、応援練習に使う時間は、自分たちの活動に当てるのが本来の姿なのだと。誰も甲子園のために消費されるべき存在ではなくて、もっと自分たちの体と時間を大事にしていいのだと。

甲子園は、自分の思う「日本の雑さ」に溢れている。高校野球が悪いなんて言わない。だけど、それを取り巻く構造はかなり変だ。この時期になるといつも思う。私たちは、もっと賢くなれないだろうか。感動を消費するのではなく、当事者たちを人間として扱う想像力を、もっと持てたらいい。

 

 
※『青空エール』という、竹内涼真・土屋太鳳主演の映画があった。美談として描かれる「応援する吹奏楽部の女子生徒」「その期待を背負って頑張る野球部の男子生徒」という構図に、誰も疑問を持たないのがちょっと怖い。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。