作り物だとバレないような
虚構と現実は別物だ。だけど、虚構を本物らしく見せることは大事なわけで、最初から作り物感丸出しのものは批判される。役者の演技が下手で非難されるのも、時代考証がなっていない歴史ものがブーイングを食らうのも、本物らしさが失われるからだ。
「『3丁目の夕日』(※昭和の下町を舞台にした人情モノ)なんていうのは大嘘ですよ、映像になってますけどね。まずね、あれにはハエが出てこない」
そう言って聴衆の笑いを取った、大学の先生を思い出す。
「昭和の時代の私たちの頃なんていうのは、まあ路地裏なんていうのは汚かったんです。ハエがわんわん湧いてゴミだらけで。そこら中に煙草の吸殻だって捨てましたしね。昔はよかったなんてえことは全然おもいません。あれは一種のノスタルジーですよ、あれを見て『昔はよかった』なんて本気で思っちゃいけない」
私は考える。虚構を現実に近づけることについて。
確かに昭和の頃の路地裏は汚くて、いまより遥かに衛生環境は悪かっただろうけど、それを忠実に再現したらどうだったというんだろう。あの映画は確か堀北真希が主演だったけれど、彼女がゴミとハエにまみれて演技していればみんな満足だったんだろうか。
そんなことないんじゃないか。ああいうたぐいのフィクションは、上澄みの綺麗なところだけを掬い取って人々に呼び掛ける。「昭和っていうのは、こんなに良い時代だったんですよ」。そのために、汚い路地裏とハエはなかったことにする。映画を観る人が求めているのは、ノスタルジーであって現実ではないのだから、綺麗なところだけ映し出せればそれで充分だ。
映画の製作者に嫌味を言っているつもりはない。見られてナンボの商売っていうのは、きっとそういうものなのだ。どんなにリアルでも、見てもらえなかったら仕方ない。その理屈はわかる。
だけど、本物らしさがまったくなかったら、それは本当にただの「作り物」だ。現実と少しも似ていないものに感情移入はできない。作り物でありながら、自分をわずかでも現実に似せようとすること、それが虚構の矜持じゃないか。悲惨な戦争もののドラマに健康的な兵士が出てくるとか、昭和の良家を描いているのに和室の作法ができてない(畳のヘリを踏む、座布団の上に立つ)なんていうのは、わりと作る側の怠慢だと思う。
作り物は、作り物だとバレないところに意味がある。リアル過ぎても嫌になるけど、嘘っぽ過ぎても見ていられない。虚構は奥が深いのだ。