「ないもの」の話

ないものについて考えている。例えば、今年行ってきたパリになかったもの。

歴史的建造物ばかりが立ち並ぶところで、思ったのは「壊す」とか「建てる」とかいう概念がそもそもないことだった。新しいものを建てる余地はなく、いまある建物を壊すという考えもなく、街はずっとそのままの姿を誇っている。

もちろん、パリも土地によっては壊したり建てたりを繰り返すのだろうけど、少なくとも目抜き通り近くの一帯は、建物は厳然と「そこにある」もので、失われもしなければ改築もされない頑なさが漂っていた。自分がああいうところに住んでいたら、建築物は永遠に(とまでは言わないまでも、自分が死ぬまでずっと)そこに、その姿のまま建っているものなのだ、と自然に信じて生きるかもしれない。

もっともそれだけに、ノートルダム寺院が焼けて形を変えてしまったことは、パリの人たちにとって大きな衝撃だったのだろうと思う。ずっとそこにあると信じていた、それも堅牢な建物が一夜にして無惨な姿になったら、足場が揺さぶられるような気持ちだろう。

「形を変える」「新しく建てる」「壊して作る」発想と概念。パリにいて「ない」と感じたものはそれだった。

ただそれは裏を返して言えば、自分には「そこにあるものは永遠に姿を変えない」という考えが希薄だということでもある。建物はいずれ壊されると思っていて、空いた土地も誰かがまた使って、また去って行くのだとなんとなく信じている。不変のものなんてない、と肌で感じている。これが日本人だっていうことなのかなあ……と思う。

「ゆく川の流れは絶えずして……」じゃないけど、やっぱり自分は流転するものの中に人生を見出す国に育てられた、と実感する。だから「永遠不変の堅固さ」という概念は、パリにあって自分には「ないもの」。

おもしろいのは「ない」が理解できるのは、それが「ある」ことを見てからの話であって、意識にのぼらないものをそもそも人は「ない」と認識することもできない。だから、「ない」は本当は「ある」とピッタリくっついているのだ。それらは対義語じゃなくて、敢えて言うなら相補語とか、関連語とか言っていいんじゃないか……。

私たちは「何かがない」と言って嘆くことがあるけど、それはそもそもないことに気づかないのと、どっちがいいんだろう。そもそも存在に気づいていないこと。それって幸福だろうか不幸だろうか。そんなことを考えている。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。