すべての死ぬもの

誰かが死ぬということは、その人と一緒にいるときの自分もまた永遠に死ぬということなんだと考えている。いきなり死の話なんて持ち出して縁起が悪いのは承知だけれど、それでも私たちは、自分の死を経験するまでは、人生のどこかで他人のそれと向き合うことになるのだから、誰にとっても関係のある話だ。

普段は忘れているけれど、日常出会う多くの人は、誰か他人の死を経験している。それは学生時代の友人だったり、かつての同僚だったり、恩師だったり子どもだったり、隣近所の人かもしれないし、自分の兄弟かもしれない。その人が亡くなるということは、ただ本人が亡くなるだけじゃない。「その人といること」が、誰にとっても永遠に不可能になるのを意味している。失われたのは人であると同時に、その人との関係なのだ。

殺人という罪が、犯罪の中でも罪が重いのは、その取り返しのつかなさにあると思う。誰かとの関係が永遠に失われること。誰かを傷つけたり騙したりするのも罪ではあるけれど、それは人と人との間柄を奪いはしない。そもそも傷つく主体すらもなくしてしまう、その人からあらゆる可能性を奪い取る行為、その人と関わりのある人々が持っていた彼/女とのすべての関係を無にしてしまうこと。それは確かに、重罪であるように思えた。

「どうして人を殺してはいけないんですか」という有名な問いに答えるのは難しい。少し前なら「ダメなものはダメ、それが人間社会のルールだとしか言えない」と考えていたけど、今日はまた別の角度から考える。殺人が犯している罪は一つじゃない。誰かの生命を奪うことそれ自体も確かに重罪だけど、それ以上に「その人とこの先、関わったであろう人々」「いま関わっている人々」との関係のすべてを永久に奪い、不可逆なものにしてしまうことの罪は大きい。その人が将来、誰にどんな良い(あるいは悪い)影響を及ぼすかは全く未知数なのだから、その罪の大きさは文字通り計り知れない。ありえたかもしれない未来をすべて奪うことは、どれだけ裁こうとしても裁ききれない罪なんじゃないか。

誰かが死ぬのと同時に、その人と一緒にいる未来が消える。そういうことを考える。そう思うと、まだ死んでほしくない人がたくさんいる。同期の女性と、またレヴィナスや人間関係の話をしたい。先生方が時々語る人生論を聞きたい。家族と他愛ない日常を一緒にしたい。私の未来に確かに彼らも存在するのであってほしい。

今日はそんなことを考える。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。