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私はアンドロイドに似ている

 すごくきれいな風景を見て「絵の中にいるみたい」と思う。すぐれた絵本や美しい風景画や、アニメのワンシーンみたいな景色が世の中にはある。それにしても、なんで「絵の中にいるみたい」と形容するんだろう?
 
 絵やアニメは、実際の風景をまねして描かれている。ほんとうならオリジナルなのは、現実にある風景のほうだ。だから現実をたとえるのに絵を持ち出すのは、なんか変な感じがする。オリジナルを褒めるのに、コピーを引き合いに出すなんて。
 
 こういうことは時々ある。

 小学校の理科の教科書に、目の構造をかいた図が載っていた。目のここの部分は、カメラで言えばレンズにあたる場所です。こっちがピントを調節しているところ。教科書はこんな風に、目をカメラにたとえて解説する。

 だけどもとはと言えば、カメラのほうが人間の目を模している。構造が似ているのは当たり前で、むしろ人の臓器のほうがオリジナルだ。
 
 奇妙な転倒。でも日常にふつうに転がっている。
 
 50年後くらいの理科の教科書には、アンドロイドが載っているかもしれない。ひとの体を説明するために、人体を模したロボットを引き合いに出して。
「アンドロイドのこの部分が、人間でいう関節にあたります。表面にはかすかな感触の違いまで察知できるセンサーとして、薄い膜が貼られていますが、これが人間でいう皮膚です」
 子どもたちはそれを使って勉強する。オリジナルの人体を持つ人々が、コピーであるアンドロイドを使って、自分たちの体について学ぶ。
 
 私はアンドロイドに似ている。似ているということは、同じではないということだ。人体はより複雑で、非効率なことをしている臓器があり、新陳代謝を繰り返して老いて死んでいく。ロボットにそういう話は聞かない。
 
 コピーにはそういういいところがある。オリジナルの煩雑さも欠点も越えられる。絵画が、現実の醜いところをすべて葬り去って、きれいなところだけ抽出するのと同じように。なにかをまねるものはいつも、オリジナルからそのエッセンスだけ貰えばいい。
 
 最近のAIの躍進には、なんだかそういうものを感じている。人間をまねていいとこ取りをする。絵を描き、小説を書き、外国語を翻訳し、詩を書く。肉体労働はいまだほとんど自動化されないのに、文化的な方向はすごい勢いで発展している。
 
 人間のエッセンスだけ抽出し、人工知能が発展していく。たいていの絵が現実より美しく描かれるように、AIも人間を越えていこうとする。そのうち人が書いた文学作品が「文章が上手で、人工知能が書いたみたい」と言われるようになるかも。
 
 技術的には、自分の分身をオンライン上に作り、打ち合わせなどの仕事をさせることも現在、可能らしい。こうなってくると、分身が自分に似ているのか、自分が分身に似ているのかわからなくなっている。「どっちが本物だっけ?」ってなるだろう。
 
 人間が「オリジナル」であることに、なにか価値ってあるのかなあ。そのうちコピーである分身たちが「僕ら人間のいいとこ取りしてるんだから、僕らのほうが優れてるよね」と会話しはじめるのだろうか。予知できない未来がなんだか怖くなる。
 
 ただAIがどこまで人間の長所「だけ」まねてくれるかは、疑問符がつくところだ。場合によっては、ひとが行なう差別や偏見まできれいにコピーされてしまう。人間を模している以上、人が持つ呪縛からAIも逃れられない(※)
 
 差別を学んだ人工知能が差別をおこなった場合、悪いのは誰なんだろう。AIに学習させた人間か、モデルになった人たちか、それとも人工知能本人(?)か。これからの時代、そういう倫理的な問題も出てきそうだ。
 それだってAIが解決するかもしれない。人間のいない場所で。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。