「我々は完結した歴史の観客ではなく、未来に開かれた歴史の中の俳優である」

誰も神様ではないし、まだ何も終わっていない。誰もが、自分の生まれた場所や国や、使っている言語の影響を受けたまま物事に向き合う。すべての先入観を捨てて、神と同じ視点からものを見る人間はいない。歴史上の出来事は、その解釈がこれからまだ変わる可能性がある。ある時ある場所で評価されたことが、時間がたてば真逆の誹謗に晒されることもある。

誰も神様ではないし、まだ何も終わっていない。

フランスの哲学者、メルロ=ポンティは、そういう視点に立って物事を見る人だった。メルロ=ポンティ、これで一続きの名前。たまに「ポンティ」と略す人がいるけれど、これは横暴らしい。専門家いわく「田中さんを『ナカ』と略すようなものですよ、駄目です」。だから、メルロ=ポンティはメルロ=ポンティであり、他に呼び方はない。哲学史上ではわりと最近の人で、2つの世界大戦に見舞われる、20世紀フランスを生きた。1961年没。

彼は「歴史」を「既に終わった過去のこと」としては見なかった。出来事は、誰がどこから見るかによってそのつど評価を変える。出来事を見る私たちの立ち位置だって、日々変わっている。人間は、神のように世界の外に立って、歴史を眺めることはできない。そういう、人間の持つ限界に彼は敏感だった。

「でもそれって歴史の話でしょう?本能寺の変とか、ウォーターゲート事件とか、ああいうやつ。だったら私たちにはあんまり関係ないと思わない?歴史の評価が定まらないからって、それが私たちにとって何?」

もしそう言われたら、タイトルの言葉を返す。メルロ=ポンティ本人の台詞で「我々は完結した歴史の観客ではなく、未来に開かれた歴史の中の俳優である」。そうなのだ。歴史の評価が定まらないのと同じくらい、私たちの人生の意味も定まらない。

私たちは亡くなった誰かのことを思って「彼の人生になんの意味があったのだろう」と考える。未成年のうちに亡くなってしまった兄、まったくの老衰で死んだ祖母、病気のため息を引き取った叔父に、ある日ねむるように息絶えた近所の老婆。その人生に、どんな意味があったのだろう。

その答えは、決して完全に明らかにはならない。その人生を見る人の立場によって、まるで意味は変わってくる。棺の蓋が閉じたあとも、その人生に対する評価はコロコロと変わりうる。誰も絶対的な──「この人の生きた意味はこれでした!」なんていう──答えは持っていない。彼らのしたことが、後々になって私たちの運命を変えることだってあるかもしれない。まだ何も終わってない。

メルロ=ポンティは、世界大戦に振り回されるフランスを生きた。そこでは、国をドイツに占領され、対独協力を迫られる市民の姿があった。当時を生きた誰も、どうするべきか知らなかった。ナチスに協力するのが、フランスが生き残る道なのか?それともドイツは破滅に向かっていて、抵抗運動に身を投じるべきなのか?

後々になって、人々は「対独協力は間違っていた。抵抗運動に参加することこそ尊かった」と一旦は評価を定めた。ナチスに協力した人々の全員が悪人だったわけではないし、当時はそれが良いと信じていたのだろう。歴史がそれを覆した。あるとき良いと言われたものが、そのずっとあとも同じように良いとは限らない。これからその評価が、また覆されないという保証もない。

私たちは実は、自分たちが何をしているか知らない。ひょっとしたらいま普通に行なわれている行為も、後世の人々から見たら言語道断の振舞いなのかもしれない。自分がどんなに悪いことをしたつもりがなくても、歴史に裁かれることはあるだろう。緊急事態宣言に協力しない人々が評価され始めた今、そう思う。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。