タモリと男の笑い

生物学的な男女とは別に、いわゆる「男」「女」という、括弧で括られた概念も存在する。今日はその「男」の話、タモリが昔々答えたインタビューがちょっとおもしろかったので紹介したい。インタビュアーは、いまはなき月刊「プレイボーイ」。

タモリ:いまの漫才ブームにしても、女に支えられたブームですよね。だから、これはちょっと怖い気がするんです。はっきり言えば、笑いは男にしかわからないですよ。

PB:オッ、言った……。

タモリ:微妙な笑いを笑えるというのは男の特権ですよね。感覚的に男に近い女もたくさんいますけど、男・女とはっきり分けた場合には、笑いは男のものですよ。

PB:とくに、箸が転げてもおかしいという年頃の女の子を、それ以上に笑わすというのは至難の業だし、第一空しいでしょうね。

このインタビューの初出は81年8月とのことなので、タモリの言う「いま」はちょうど40年前になる。そのあと漫才ブームが衰えた気配はない。タモリは何を「ちょっと怖い」と言っていたんだろう。

もしそれが「支持層が漫才に飽きてブームが終わる」だったなら、その心配は当たらなかった。何よりタモリ本人が番組も持って、茶の間の笑いをリードしてきたはずだ。あるいは「漫才の質が落ちていく」ことを「怖い」と言っていた可能性もある。この40年で、漫才のクオリティは上がったのか、それとも下がったのか。

自分は40年前の笑いがどんなものだったかよく知らない。いまのお笑い文化が、男性のものに限定されていないことだけはわかる。M1グランプリの結果がSNSで流れているときも「女性の容姿をイジるネタがもはや評価されてない」とか「人を傷つける笑いが減っていてホッとする」という感想をよく見かける。「クオリティが上がった/下がった」というより、単純に、より多くの人に受け入れられる笑いが存在感を増している。

逆に言えば「男」にしかわからない笑いは、タモリが危惧しているように衰えたのかもしれない。「微妙な笑い」ではなく、誰でも笑える「わかりやすい笑い」が評価されるようになったと言うこともできる。幅広く愛されるのはいいことだけど、一方で「わかりにくいがわかる人にはわかる」笑いは急速に淘汰された計算になる。

微妙な笑いを笑うことのできる、概念としての「男」はつまりもういないのだろうか。それもつまらないな、と思う。

ジェンダーフリーの精神には賛成だけど、それは「性差によって理不尽な思いをしなくていい」という意味であって「性差を感じるものはなんでもかんでも排除しろ」ということじゃない。「男」だけの笑いがあるなら、たとえ自分にそれがわからないとしても、それはそれで存在していてほしいし、それこそが多様性であると思うのだけど。

引用:月刊「プレイボーイ」2008年12月号、集英社、86頁

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。