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カントと俳優

架空の一兆円と現実の一兆円、どちらも一兆円であることに違いはない。内容は同じ、存在する次元が違うだけ。もちろん「だけ」と言ってもその差は大きくて「架空の一兆円あげるね♪」と言われたところで「いや本物でお願い」となるだろう。次元の差は超えがたい。

カントがどこかで「存在は定立 ていりつに等しく、現実存在は絶対的定立に等しい」と言っていた。テイリツってなんやねん。定立は、読んで字のごとく立てて定めること、それを想像したり捉えたりできるってことだ。だから相手は架空のものでも問題ない。私たちは、想像上の金額も、架空の登場人物も定立することができる。一兆円もピカチュウもハローキティも、別に触れる形で存在しなくたって「ある」「いる」と思える。

現実存在は、文字通り現実に存在する。だから絶対にある、絶対的に定立できる。間違いなくそこにあるから。そういうわけで、存在は定立に等しく、現実存在は絶対的定立に等しい。

だから漫画の登場人物も、アニメのキャラクターも、小説の中に出てくる喋るウサギや猫も、そういう意味では「存在」する。現実にはいないから触ることもできないし、次元の超えがたい差はあるけど、やっぱり「ある」し「いる」。手も足も体もなくても、やっぱり「いる」。

その次元の差、カント風に言えば定立と絶対的定立の差を超えようとする職業がある。俳優だ。よくアニメを舞台化した作品を、二次元と三次元の間という意味で「2.5次元」と呼ぶけど、あながち間違ってない。というより、ああいう職業はなんだって次元と次元との間で動くものだと思う。どんな俳優も生きている場所は2.5次元だ。

自分は一度も役者に憧れたことがないのだけど、その理由はこのへんにあった。次元の差を埋めるなんて人間業じゃない、怖いのだ。本当はこの世に存在していない誰か(何か)が、どうにか三次元の場所に出てこようとする、自分の体を使ってこの世界に存在しようとする。でもそれはいつも完全な形にならない。もし田中さんがロミオを演じるとすれば、田中さんは完全にロミオになることはない。舞台の上にいるのは、100%の田中さんでも100%のロミオでもない「誰か」であって、そういうことの底抜けの不気味さに気づくとゾッとする。こういう人間は役者になれない。

それで「俳優」にはいつも一定の尊敬がある。敢えてあれを仕事にしようというガッツもすごいし、優れた演技はお世辞抜きに素晴らしい。存在の次元を超えて、「向こう」の世界を「こちら」の世界に引き入れようなんて行為は、並みの人間にはできない。どんな仕事にでもそれなりのすごさはあるものだけれど、俳優のそれは意味が違う。

もっとも言う人に言わせれば「台本に書かれた台詞を言うだけの簡単な職業」でもある。たまに本当に下手な演技を見るのはそのせいだろう。とりあえず話している内容が通じればオッケー、そういう俳優もいる。彼らを責めようって気にはなれない。次元を横断しようなんて普通の人には無理だよ、こっちにおいで、そんな気分になる。根っからのまともな人は演技が下手だ。まともな人間に存在の次元のズレは耐えられない。耐えられるはずがない。

優れた役者はみんなどこかおかしい。そう信じてる。好きな俳優も尊敬する役者もいるけど、それとこれとは話が別だ。本人の自覚のあるなしにかかわらず、「ここじゃないどこか」と付き合う能力、言ってみれば次元を超えられると思う高慢さがないと務まらない。それって先天的な才能なんじゃないかと思う。あとからどれだけ獲得しようとしても、根本的に持っていないとどうにもならない何か。

架空を現実に近づける狂った努力、俳優にはそういうものを感じる。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。