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【散文】言葉の話

言葉があるから話すことができる。
言葉は一個だけで独立することができずに
他のすべてとの関連の中で意味を持つ。

哲学書を読んでいると、それだけで詩みたいな部分に会う。正確には「言語が我々の話すことを可能にする」だったけど、その固い語り口であっても、言ってることは変わらない。

言葉について。

それはすべて他者のために発されるものだ、と言った哲学者がいる。他人のために発される以上、口からこぼれるものはすべて祈りである。すべては祈りである。

そんな風に考えることもできるのかな、と思った。その哲学者は宗教色の濃い人で、それを隠そうともしなかった。他の人々が、できるだけ宗教から身を引き離して哲学しようとしたのと対称的に。

祈り、日本ではあまり使われない単語に思える。そもそも日常的に何かを祈るなんてことあるだろうか。神社に行くのは「願掛け」が多くて、それは純粋な祈りとは違う。願うことと祈ることの差異。

「言霊」と言うくらいだから、言葉には「そうであってほしい」の願いの側面のほうが強いように思う。悪いことは言わないようにしよう、なぜならそれは現実になってしまうかもしれないから、良いことは口にしよう、そうすれば本当にそうなるかもしれないから。

もちろんそれは「願い」レベルのことでしかないけれど、言葉の持つ力を侮っていないとも言える。目に見えず重さも持たず、空気を揺らすだけに過ぎない音の連なりが、しかし持っている力を信じること。

祈りと願い、でもそのどちらもあまり信じていない。自分にとっては、言葉は常に贈り物だ。送られるものであり贈り物。自分に向けて発送されたもの。いいものもあれば悪いものもある。毒入りのときもあれば、価値あるものが贈られてくるときもある。言葉は常に誰かのために発されるけど、祈りとは少し違っている。

「何も与えられていない」と口にする人にも、少なくとも言葉が与えられていて、だから話すこともできる。与えられているからこそ、何も与えられていないと言える。その逆説に、言っている人はなかなか気づかなくて、教えてあげようって気にもならない。

空気が与えられている、体が言葉が、あるいはもっと根本的に「存在すること」が贈られている。だから「自分には何もない」と思ったことがない。

何かを忘れるのは、忘れることができるからで、何かを思い出すのは、思い出すことができるから。そして苦しむのは、苦しむことができるからだ。不幸を日常だと思っていない人だけが、不幸を不幸だと言うことができる。


本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。