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「自由」のモヤモヤ

たくさんの選択肢が与えられているのに、それがすべて間違っていることがある。どれを選んでも後悔する、右も左も同じくらいよくない状況。でも選んだが最後「後悔しているなんて言うけど、結局それはあなたが選んだことでしょ」と自己責任論を説かれる。

間違いを犯さないことはできない。悪気が全くなくてもダメなのだ。間違いを犯すしかなかった、と愚痴をこぼすこともできない。こちらは犠牲者ではないのだから、文句など言えない。
──多和田葉子『変身のためのオピウム』講談社、2001、110頁

「いくらたくさんの選択肢を目の前に広げられても、それが全部ロクでもないものだったらどうしますか。そしてどれを選んでも、お前のせいだと言われるのだとしたら。それって『自由』って言えますか」
哲学の授業で教授がつぶやいた、そんな台詞を思い出す。それくらいなら、何も自分で自由に決めることはできなくても、それなりに良い待遇を誰かが強制してくれたら乗っかるんじゃありませんか、と話は続いた。人類には、自由なんてものは早かったのかもしれませんよ……。

上で引用した本は、その少し後にこんな文章が続く。

能力があって勤勉だからといって他の人たちよりずっとたくさんお金を儲けていいものだろうか。怠慢で才能がないからといって、貧乏に苦しまなければならないのだろうか。
──同上

「どんな選択肢だって選べますよ」と言われているようでいて、本当は選べるものなんてそれほどなかったんじゃないか。本当は自由じゃないものを自由と錯覚して、だから自分の境遇はすべて自分が選んだ結果なんだと無理やり納得してないだろうか。

お金を稼ぐ才能に恵まれなかったら、どんな貧しい境遇にも甘んじなければならないんだろうか。逆に能力さえあれば、法外な富の独占も許されるのか。それって「自由」なんだろうか……、なんか選択肢はひとつしかないように見えるけど。

自由って本当に存在する?存在したとして、それはどれだけ良いものなんだろう?そんなことを考える。「何を選んでもいいが、全責任はお前にある」っていうタイプの自由、人によっては結構苦しいだろうし、それくらいなら、何も自分で選び取ることはできなくなって、誰かにそれなりにお膳立てされる人生がいい……という人はそこそこいるだろう。

ひとつだけわかるのは、腐った果物ばかり目の前に並べて「何を食べてもいいのよ」と言うような「自由」は、見せかけだけのものということ。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。