会うことはずっとリスクだった

渦巻くいろいろな感情に、上手に名前をつけることができたなら、状況は何も変わらなくても少し楽になるかもしれないね。そんなことを考えている。

コロナ離婚とかコロナ婚とか一部で名付けられるような現象が始まって、みんなこの状況下でどうやって恋愛を進めているんだろうと思う。見つめ合ったり触れ合ったりするのって、画面上では全然、雰囲気出ないだろうし、会いたい人たちはガンガン会えばいいような気もする。感染に気を付けさえすれば。

人々が同じ場所に身体を持って居合わせることは、自分の身体を他人の前に晒して、傷を受けたり触れられたりするリスクを背負うことなのだ、と今更ながら実感する。対面で話すことが特別なのは、ある意味それが信頼の証になるからかもしれない。あなたと同じ空気を吸うこと、あなたに触れられる距離まで近寄ること、それを互いに許可することは、ある程度の信頼関係がないとできない。

裏を返せば、それはオンラインのメリットになる。画面のこちら側はいつも安全だ。知らない誰かに触れられる恐れもなく、暴力に晒される危険性もない。銃弾だって届かないし、誰かに物理的に傷つけられる可能性が、元から断たれている。大声を上げられても、音声をオフにすれば聞かずに済むし、最悪、回線不良を言い訳に画面から消えることもできる。

リモートワークで公共機関の利用が減った分、不本意な身体接触が避けられてホッとしている人も多いだろう。他人の前に身体を賭すことがない以上、痴漢や冤罪に怯えなくて済む。こうして考えると、今までの通勤とか通学とか、人と会うっていうのは、いろいろな危険を冒してなされていたことであって、しかもその危険を誰もが平然と受け入れていた(というより、受け入れざるをえなかった)のだなあ、と。

外の世界は危険だ。外の世界はずっと危険だった。どんな考えの持ち主が道を歩いているかわからないし、性犯罪者が乗っている車両に居合わせているかもしれない。手すりや吊革は、どんな病気の人が触ったものか知れない。数え上げればキリがない。

家にいることのメリットがこうして可視化されていくのは、悪いことではないような気がする。同時に、対面で身体を晒して会う関係が大事だという理屈も、前よりずっとわかるようになった。

コロナと生きる世界がどう転ぶかはわからない。少なくとも、人と直に会う経験がより貴重なものになっていくことは確かで、オンライン対面で済む人と、直接会う人を、みんなどういう基準で分けていくのか、自分はどうするのか。そういう物差しが今後なんとなくできていくんだろう。今日はそんなこを考えた。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。