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ありふれた日も読書日和

 読書日和というにはあまりに平凡な一日だけど、いい本に会えればその日がいい日。帰宅した1人暮らしの部屋で、寺地はるな『わたしの良い子』を読む。きっかけは、noteで紹介していた人がいたから。

 

 文中にはふっと共感するようなセンテンスが幾度も浮かび上がってきて、この作家の別の作品も読もうと決めた。たとえばこんなところとか。

 

(…)「盛り上がって行こうぜ!」と言われたら「あ……はい……」と萎えてしまうようなところがわたしにはある。そういうタイプの人間は「ノリが悪い」と評価されるし、ノリの悪い人間は集団生活には向いてない。

 

 本の前で(うん)とうなずいた。自分にもそういうところがある。みんなで盛り上がる気質じゃない。酒を呑んでウェイウェイする人々は別世界の住人で、集団で気炎をあげる雰囲気にも乗れない。

 盛り上がったものは、次の瞬間には落ちるに決まってるじゃないか。淡々といこう。

 なんて言う人間は、ノリのよい人々のあいだでは犯罪者に等しい。

 

「値段の問題じゃないんだよね。外食ってさ、ぜいたくなんだよ」
 ただ座っているだけで、他人がつくってくれた料理が、目の前に運ばれてくる。そして食べ終えたあと、その食器はこれまた他人が下げてくれて、洗ってくれる。
「じつはものすごいことだよね、これは」

 

 二回目の(うん)。自分で作るのが嫌いなわけじゃないけど、他人がなにもかもやってくれるって別格だ。とてもラクで快適で、洗い物のお皿もまな板もなく、そもそも皿を自分で出す必要だってない。値段の問題じゃなく、それがもう贅沢ってことなんだ。

 

 前によく通っていたお店を思い出す。こじんまりした食堂で、一日に二回行くこともあった。たいていは日曜の昼と晩。女将さんが笑いながら「無理して来てくれなくてもいいのよ」と言うくらい通っていた。

 店にはもう1人、女将さんの親類らしき男性がいて「いや、わかるよ。皿洗ったりなんだりする暇考えたら、外食のほうがいいじゃん。1人暮らしならなおさらさ」とうなずいていた。いま思えばあの人は、毎日女将さんの料理を食べていたのか。うらやましい。

 好きだったメニューは、玉ねぎがたっぷり入ったハンバーグと、ナスの味噌炒め。女将さんは「メルシーちゃんが最後の晩餐で食べるのは、きっとナス味噌ね」とやっぱり笑っていた。

 その食堂ももう閉店したので、最後の晩餐には別のメニューを探さないといけない。

 

 『わたしの良い子』は、食の描写がよく出てくる。会社に持って行くお弁当、お惣菜を買うこと、顔をしかめるときに飲んでいるコーヒー。

 さまざまなシーンのさまざまな料理がふっと教えてくれる。結局のところ人間は食べずには生きていけなくて、どんな高尚な考えを持っていようが、体を支え存在し続けるためには、食べないと。

 

 大学院で同期だった女性は言っていた。食べさせるということは愛だと思う、その人を生かしたいって思ってすることだって。おおげさかもしれないけど。

 この人はかつて飲食店を経営していた。お腹が減った人たちを受け入れ、料理を作る手間も後片づけのわずらわしさもなしに送り出す、その光景は確かに尊いように思えた。

 たまにまったく仲良くないのに「手料理をつくって」と要求してくる人がいて、その気持ちがずっとわからなかったけど、理由はこのへんにあるのかもしれない。

 

 もっとも『わたしの良い子』は特にご飯本というわけではない。本を紹介していた人は「周囲からは白い目で見られながら、一般的ではない形の家族をつくっていて、本人たちはすごく幸せ。普通なんてないと教えてくれた本」と書いていた。

 メインテーマは「家族」。でもそれを取り巻く日常の描写も好きな、今日の一冊。


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