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死ぬ前に見ろって言われる

見ないで死ぬのはあまりにももったいない。「ヴェニスを見て死ね」は、ヴェニスがそれほどに美しいと称えた言葉だけれど、それにしても「死ぬ前にこれを見ておけ」と人に言うほど、魅力的なものってなんだろう。

思いつくのは、歌舞伎の女形、坂東玉三郎が踊る『鷺娘』だ。人間の娘に姿を変えた鷺が、地獄の責め苦を受けながら恋に生きる悲哀を踊る──というストーリーが一応あるものの、基本的には踊り手の技量と衣装の変化など、舞台の妙を楽しむのがメインの作品である。

残念ながら映像作品でしか見ていない。生で見られることももうないだろう。あまりに体力を使う作品だということもあって、坂東玉三郎本人がもう踊らないと言っているそうなので……。とはいえ、映像でも十分その魅力が伝わってくる。初めて見たとき、家族が居間のテレビで見ていたのを何の気なしに見に行って、そのまま画面の前に釘付けになった。それくらいの吸引力がある。

今日テレビで日本の芸能をやっていて、やっぱり玉三郎が出ていたけど、この人はやっぱりすごい。人間国宝は伊達じゃない。お正月ならではの豪華な着物を観客に見せるとき、その背面を客席に見せながらポーズを取るシーンをやっていたのだけれど、その色っぽさと言ったらない。『鷺娘』でなくても、死ぬまでに何かしら見ておいたほうがいい、それが坂東玉三郎。

もちろん感性は人それぞれだから、誰かが「死ぬまでに見ておけ」と言うものも、ある人にはとってはそれほど好みじゃないということはありうる。だけど、1人の人がいままで生きてきた上で最高にいいと感じたものが、大幅にハズれることもまた珍しい。だから、誰かが「生きている間に体験しておいたほうがいい」と言うなら、自分はかなりの確率で挑戦する。

ヴェニス=ベネチアも実は一度だけ行ったことがある。当時は風景を受け留めるだけの余裕がなかったので「運河。綺麗。異国情緒漂う街並み。自分はここでは外国人」くらいの感想しか持てなかったのだが、確かに綺麗だった──と思う。お土産にブックカバーを買ってきて、それを今でも使っている。粋な柄のしっかりした作りで「安くて使い捨ての物はお呼びじゃない」という、ベネチアのお土地柄が滲む一品だ。

お年始に「今年は何をしようか、挑戦してみようか」と考えている人は、とりあえず誰かの「死ぬまでにやっておけ」を聞くと世界が広がっていいと思う。仮に大外れだったとしても、それはそれで貴重な体験になるんじゃないだろうか。


本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。