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「存在する」って不思議な動詞

「存在」とか「存在する」というテーマは、ずっと哲学を魅了し続けてきたわけだけれど。これは言葉自体がかなり固くて、もっと単純に「いる」「ある」と言い換えてもいい。それってどういうことなんだろう。すごく普通に「あれがある」「あの人がいる」と言う、そういうときに考えていること。あるいは見過ごしていること。

「ある/いる」は、他の動詞と何が違うんだろう。何がそんなに特別なんだろう。

例えば「食べる」「買う」みたいな身近な動詞は目的語を取る。パンを食べる、本を買う。それはパンとか本がないと成り立たない。何もないところで食べたり買ったりはできないわけで、そのへんが自分一人で完結する「ある/いる」とはだいぶ違う。

でも目的語を取らない動詞もある。「歩く」「座る」みたいに。別にこれだって、他の人がいなくても私は歩いたり座ったりできるから、存在の動詞だけが特別なわけじゃない。そういう風にも言える。あるいは「起きる」とか「寝る」も、起きたり寝たりするのは周りに誰もいなくても一人でできる。ならやっぱり、存在だけが別格ってこともないんじゃない?

どうだろう。歩くことは他人に代わってもらえる。座るのも代わりに座ってもらえる。代わりに寝てもらう、とかは無理だけど、自分が寝ないでいることはできる。起きないで寝ていることもできる。他の動詞は全部、それをしたりしなかったりできる。パンを食べないのも歩かないのも、本を買わないのも自由。

「ある」ことだけはそうはいかない。「私しばらく存在するの止めるね」とか「あなたの代わりに存在してあげるね」とかできない。交換もできないし、中止したり再開したりもできない。そこが違う。だからこれは不可思議な動詞で、人間が自分の意志で思うように動かしたり、他人に代わってもらったりできない、ある意味ヘンな動詞。でも一番根本的な動詞。それがないと他のどんな動きもありえない。存在しない人は歩いたり起きたりできない。だから「ある/いる」は、すべて存在するものの一番根底にある動詞。

「存在」の言葉は固い。『存在の耐えられない軽さ』という本に付けられたコメントに「これは本来、哲学の言葉だろ」と書かれていて、ああ言われてみれば日用語じゃないと思った。この本はミラン・クンデラの書いたもので、出だしが印象的だったのを覚えてる。「一回なんてないのと同じだ」という言い回しと、人生は一回しかないこと。仮に失敗をしてもひどい死に方をしようとも、それが何度も繰り返されるわけではないこと。

「人生は一回しかない」は、たいていの場合「だから大切に生きよう」と繋がるものなのに、これは反対のことを言っていた。何をやっても一回で終わるのだから、それがどんなに悲惨だったり間違っていたりしても、繰り返しそれを味わわなくていい。それほど使い捨てというか、軽い。世間と言われているのと真逆だったから、当時はそれがけっこう衝撃で、作文にも書いた覚えがある。高校の厳しい論文指導の先生が、なぜかその文章については何も赤ペンを入れていなかった。あれはなんだったんだろう。彼女の信条と違い過ぎてノーコメント、とかそんな感じだろうか。

子どもが生まれることは、その不思議な存在がひとつ増えることで、ある教授は「子どもが生まれたとき思いました。『ああ、この世に一人の人間を増やしてしまった』」と子育ての始まりを振り返っていた。うん、誰かが存在し始めるというのは、なんだかとても神秘的なことなんだと思います。それにしても出産って、新しい存在を生み出すことなんだな。普段はあまり考えないけれど「ある/いる」について思うと、そこまで行ってしまう。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。