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守りの気持ち

殴られたときに大事なのは、気持ちで負けないこと。どこかでそう聞いたことがある。大抵の場合、痛みそのものは大したことない。だけど「殴られた」という事実そのものに衝撃を受けて、戦闘不能になってしまうことはある──そんな話だった。

殴ってきた相手が人生だった場合どうするか。思いもよらない悲劇や、知りたくなかった過去の事実に襲われたときにどうするか。こちらも事情は同じらしい。

人生っていうのは、とんでもなくデカいグローブをはめているものなんだ、諸君。そこで挫けたりするもんじゃない、最初の一発を耐え抜けば、半分くらい勝ったようなものさ。

『飛ぶ教室』を書いたケストナーは、本の中からそう語り掛けてくる。「人生が繰り出してくるパンチに対してガードを固めろ、ボクサーがそうするように」。何かひどい出来事があるたびズルズルとひきずる自分としては、気が引き締まる人生論だ。思い切り背中を叩かれているような気持ちになる。

「ガードを固める」が具体的に何を指すのか考えてみた。例えば、誰かに手痛い扱いを受けても、それだけで「自分には価値がない」などと思わないこと。言葉の攻撃に傷ついたら、悪意を向けられたという衝撃にまず耐えること。多くの場合、言葉の内容そのものは大したことない。仮にすごくひどい内容であったとしても、言葉に人を直接殴る力はない。

試合に「攻め」「守り」があるように、人生もその二つが必要なのだと思う。攻めに入って自分から動いていくのが必要なときもあれば、守りを固めて何も失わないようにするのが必須の時期もあり。これが両方とも得意な人はあまりいない。攻めが得意だと守りが甘く、攻撃的な人ほど自分がやられることには無防備だったりする。逆もまた然りで、耐え抜くのに慣れた人は、果敢に攻めていくことが苦手だ。

一般的に「攻め」のほうが、わかりやすくて派手で評価されやすい。守りは地味で動きがない。だけど逆境になると強いのは後者だ。相手──悪口とか手痛い扱いとか、その他もろもろのひどいこと──に、点を取らせない。必要以上に傷つかない。殴られた部分は痛いかもしれないけど、全身が痛いわけじゃない。まだ闘える。

闘わなくて済むならいいけど、人生がはめているグローブはとても大きいから。無傷で生きていくわけにはいかない。それでも最初の一発を耐え抜けば、半分くらいは勝ったようなものさ……。そんなケストナーおじさんの台詞を読みながら、コロナ下の夜を過ごす。

引用:Erich Kästner, "Das fliegende Klassenzimmer" Dressler, 2014, S.18
(私訳、一部略)

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。