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生きている間につく嘘の数

 まったく嘘をつくことなく、一生を終える人などいるのだろうか。

 人と他の生き物を比較したときに、人間だけが嘘をつく。いや、そもそも人間ほど複雑な言語によるコミュニケーションをとる生き物は存在しないし、嘘をつくには知恵と動機が必要になる。

 他の生き物と比べること事態が、どだい無理があるのかもしれないが、それでも僕が人という生き物を考えるとき、心と嘘というのはどうしても無視できない存在なのだ。

 まず最初に言っておきたいのは、僕は嘘が好きだ。嘘をつくのも、嘘を疲れるのも嫌いだけれども、嘘そのものは好きだ。実に人間らしい。

 僕はこれまでどれだけの嘘をついて生きてきたのか。またどれだけの嘘をつかれてきたのかを考えると、なんとも身の縮む思いがする。情けなくも恥ずかしく、稚拙で臆病で卑怯な自分がまず最初に見えてくる。

 でもその一方で、嘘によって人に救われたこと、嘘によって誰かが傷つくことを回避できたこと、嘘によって誰かを楽しませたり、和ませたり、勇気付けたりしたこと。そういう嘘も確かにあるのだということを思い出す。

 嘘のない世界ははたして、どんなことになるのだろうか。別れ際に『また、会いましょう』と言って去っていくあなたの背中には『いや、もう会うことはないと思うけど』などと本音が透けて見えてしまうことがある。

『ごめんなさい』と謝ったあなたの舌には、『でも、僕は悪くない』と浮かび上がってくることがある。或いは『好きだよ』と甘く囁く彼の指先は、別の女性の名前をなぞっているのかもしれない。

 たとえばそう、親しくなった男女の間に友情は芽生えるか、男女の親友は成立するかという話題がでることがある。僕は否定をする。それはどちらかが我慢(=嘘をつく)をしているか、その気持ちが互いにタイミングが合わないだけで、その状態を友情状態、親友状態というのなら、そうかもしれないが、双方にまったく意識を一度もしないなどということはないと答える。

 どんな出会い方をするのか、どんなすれ違い方をするのか、そういう要素も含めて友達以上恋人未満というのは、便宜上存在するが、それは嘘の状態なのだと僕は考えている。

 そしてそういうことをわかってなお、互いを求め合ってしまうような時が来たとき、その嘘の効力は失われ、互いを意識することでそれまで許せていたことが許せなくなったり、それまで求めなかったことを求めるようになると、だいたいはその関係は壊れてしまうのだと思う。

 さて、友達以上恋人未満という話題は語りつくせないほどに思うところはあるのだけれども、それは別の機会にするとして、最愛の人を亡くした僕の古い友人の話をしよう。

 49日を過ぎ、彼女も少し落ち着きを取りもどしつつあるように思えたのだが、数日前に彼女から短いメッセージが送られてきた。

『諸行無常』

 それは仏教用語で、森羅万象はすべて、姿も本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができないことをいう意味なのだが、この場合、最愛の人を亡くしたことを指しているのかなとも思ったのだが、どうにも腑に落ちず、彼女に電話をすることにした。

 20年ぶり、いや30年と言ったほうが近いほどに久しぶりの電話をするのになんの迷いもなかった。彼女は少し驚いた様子ではあったが、女性の声というのは、いくらでも若さを保てるものなのだとそのとき思った。

 話としては、人生最大の凶事のあと、彼女の身の回りで起きた数々の不幸な出来事の話だった。その前にかなり落ち込んでいたのは知っており、それがどうにか持ち直したところに畳み掛けるように不幸が友達を連れてやってきたというのだ。

 僕はその話を聞いて、笑った。

 彼女も笑った。

 彼女が涙を流しているのは電話口でもすぐにわかった。だけど僕は勇気付けるわけでもなく、優しい言葉をかけるわけでもなく「そこまでいったらもう、笑うしかないだろう?」と陽気に、そして強気に声をかけ、そんな不幸のデパートみたいな話は、笑い飛ばすしかないのと悪ぶり、彼女も「そうだよね」と少し疲れた笑い声をあげ、それからいろいろと話をした。

 僕はその不幸の内容を詳しく聞き、一番の凶事から考えれば、その凶事はだんだん軽いものに変わっていっているという事実から、「それは見方によってはだんだんよくなっているってことだよ」と嘘をついた。
 さらに厄年になにか大きな不幸があったかとたずね、それには心当たりがないと聞くと「それなら、それが全部今年に来ただけだよ。神様も忙しいからたまに処理を忘れて、その帳尻を合わせるときがあるのさ」と嘘をついた。

 そして彼女は「なるほど、そうかもね」と元気よく答えるという嘘をついた。

 彼女にとって最悪の凶事である最愛の人の死についても、もし彼の命が繋がり、この世にまだ残ることができたとして、それが家族みんなに負担をかけることになることを彼自身が自覚できたのなら、きっとそれを彼は自分の意思でこのまま逝くことを選んだのではないか。そんな話を霊感があるという人から聞いたのだと彼女はいい、僕もそうに違いないと嘘をついた。

 それらは嘘というには他愛もない、非現実的で科学的根拠を持たない妄言と言ったほうがいいのかもしれないけれども、この世の中にはそういう嘘がとても重要な役割をしていることを僕は知っている。

 人類最大の嘘は神や悪魔の存在であり、それらはみんな人の心の中に潜んでいる、或いは組み込まれている安全装置のようなものだと僕は思う。

 善の心は平常時に、悪の心は非常時に自分の生命や、社会秩序のために用いられるのでないだろうか。僕はそんなことを考えるのが好きで、そんなことを彼女で電話で話をすることが昔から好きだった。

 高校生のころ、夜中まで家の電話で語り合った二人は、今、それぞれの場所でそれぞれの家族を持ち、それぞれの暮らしを営んでいる。十代の3年間という輝かしくも危うく、儚い時期をともに過ごし、お互いに傷つき傷つけあったこともあったが、今こうして昔のように話ができるようになるには、やはりそうした嘘が必要で、それをお互いに知っているから、お互いの嘘に身を委ねられるのだ。

 電話を切ればお互いにリアルな現実の中に戻ることになる。

 それは嘘でも誠でもなく、ただただリアルな現実なのだ。

「今はいろいろとあれだから、落ち着いたら酒でも飲もうよ」
「うん、そうだね。じゃあ、またね」

 その言葉は、はたして、嘘なのか、そうではないのか。たぶん二人ともそれは考えたくはないのだということは、間違いない。

 嘘から出たまことという言葉もある。

 嘘が真実を生み出す事だってあることを、よくもわるくも二人は知っているからこそ、今は考えたくないのだろう。

 僕は生きている間に、いったいどれだけの嘘をつき、そこから『まこと』を得られるのだろうか。

 彼女を元気付ける嘘を、この先いくつつくのだろうか。

 僕は、嘘が、好きだ。


※このお話は「友人の最愛の人の死を悼んで」の後日談です

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