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アンチテーゼ~選挙に良く行かない論争なんかいらない

 相手が言わんとしていることがわからないとき、相互に理解を目的としてこちらの手札を何枚も出して、それでも結局平行線な議論の末に僕はその場から降りることを決断した。
 ひとつには自分が出した手札のうち、効力がなかったものやうまく使いきれなかったものの整備(情報の確認と歴史的な検証の推移)をする必要があったからだ。勝てないと思う勝負を続けるうちに手札の扱いが乱暴になっていることを自覚し、理論武装を再チェックしたかった。
「勝てない」と表現をしたものの、それは相手を打ち負かすことができないという意味ではなく、相手の心に届かないと考えたからなのだけれども、論理が平行線になるならば心を攻めるというのは、正直愚策で、そこに自分が行きそうになったので先に折れたというのがもう一つの理由であり、もっとも大きな理由でもある。

 さて、人は知性を持っているにも関わらずこのように理解し合えないというのはいったい何が起きているのだろうか。具体的に言えば「戦争はいけないことだ」と知性と感情で理解していても、それが世界からなくならないのはなぜなのかと考え、なくすためにはどうすればいいのかという話になったとき、僕は次のような答えを持っている。

 人類の歴史から戦争がない時間は極めて少ない。それを具体的に検証できるのは近代においてであって、それ以前の歴史に関しては実際に何がどこで起きていた方言うことを議論に出すにはあまりにも具体性に欠ける。
 しかしながら人類が戦争を回避しようとしてきた努力、その根本にある貧困と格差の問題を解消すべく、現在の社会体制は構築されたものだ。ゆえに今、語るべきは近代社会が今の姿になった第二次世界大戦後、特に国際連合が解体し、国際連盟が設立されてからの各国の戦争や紛争がどのように起き、どのように終結したのか。それをどうすれば避けることができ、または早期に解決することができたのかという話がまずベースになり、そのうえで「戦争はいけないことだ」と考える一人一人が世の中にどう働きかけるのが「平和への道であるか」を考え、実践するにはどうすればいいのかを議論することで、相互の理解が深まると考えている。

 ここで起きることがまず、知識と解釈の違いだ。ともに戦争はいけないことだと理解していても、ベースとなる前述の社会情勢の理解には隔たりがある場合がある。今は平和であるのかという問いに対して、その危機感はそれらの隔たりを含めて解釈の違いが生まれる。
 確かに日本は太平洋戦争後、国際紛争の当事者になったことはない。その意味で日本は戦争のない国、戦争を起こしていない国と言うことができる。しかしながら戦争とは武力の行使に限らず、当該国同士の紛争に対して、どちらかに経済的支援、物資の供給や補給その他、軍事目的に使われる輸送や駐留地の貸与など、様々な軍事協力に含まれる行為は、軍事協力であるとした場合、日本は決して戦争をしてこなかった国ではなかったし、戦後の復興と同盟国のへの支援は切り離しては語れない。
 その考えから日本は戦争をしてこなかった国とする認識を鵜呑みにすることができないと考える人は現状を平和な状態とは考えない。

 さて、戦争はよくないが選挙には関心がない。なぜなら政治を信じていないし、誰に投票したらいいかわからないからと投票に行かない若者をいかに投票所に足を運ばせるかという議論になれば、人々はいろんな意見を出すだろう。制度の問題、運用の問題、現在の政党の問題など、若年層、30歳までの投票率を上げるアイデアはいろいろとでると想像できる。
 では40代、50代、そしてそれ以上の世代の投票に行かない人たちに対してどのような議論をすれば、どのようなアイデアを出せば投票所に足を運ばせることがでいるかとしたときに、先に若者のときのように活発な議論やアイデアだしが可能であるかどうか。

 経験から行くとそれは限りなく不可能に近い。仮に選挙に行かないのは義務を全うせず、責任を放棄しているなどと訴えたら喧嘩にしかならない。選挙に行ったからといって世の中は何も変わらない、或いは政治を信用していない、政権交代が行われてもよくなったことは何かあったのかといった反撃を食らい、双方の言い分に歩み寄るきっかけを見出すことは難しい。
 選挙に行くべきと考える人の中には過去の歴史からいかに現在の民主的な政治体制を人類が獲得したかを説き、投票しないという人の中にはそれでも戦争はなくならず、世の中がよくなったことはないと反論する。
 悪くしないため、傾きを正すために投票すべきだと言えば、それで世の中がよくなり、強いては戦争がなくなる世の中が実現できるのかと証明することを求められる。
 これをリベートの構造で考えると投票するべきという意見とすべきでないという意見の対立なのだが、どちらも現在の社会においてその実効性を証明できない。シュレディンガーの猫のように箱を開ければ結果が得られるというものでもない。論が立つかどうかの技術論になってしまう。
 結論から言えばだから人類は戦争を止めることはできない。この一つのお題、投票すべきかどうかを相手の思想を破壊しない限り決着がつかないというのは三次元に生きる我々の限界なのかもしれない。

 選挙に行かない人に対して、その結果、ヒトラーを生むことになるとか戦争に巻き込まれるといった話をしたところで、それはこのツボを買わなければ不幸になるといっているのとなんら変わらない。
 そう。問題はその何ら変わらないという手法でしか、結局のところ選挙に行くことの意味を相手に伝えることは不可能なのだ。

 さて、筆者には支持する政党はないし、支持しない政党もない。ではいかにして投票をするかといえば、いつでも政権交代が行われるようなバランスを保つために一票を投じている。政治家そのものを強く信じることもなければ、まったく期待をしないわけでもない。政党が掲げる公約がどれほど自分の考えと同じであろうとも、その実効性にはなんら保証はない。少数政党に投じることは死に票を生むだけでなんら影響を与えないという結果も承知している。
 しかし数字はプレッシャーになる。たとえ政権与党が盤石であっても、一定数以上の反対票が別の政党に集まれば政治の緊張感が生まれることを期待している。それこそがシベリアンコントロールだと考えている。政治をよりドラスティックに運用するため、つまりは改革を進めるためには能力のある政治家に最高の政治的裁量を持たせるのが一番即効性がある。
 しかし民主主義の神髄とはそこに議会を含めチェック機能をあらゆる意思決定の場に置くことによって一定方向に傾くのを防ぐようになっている。その大きな仕組みが三権分立であり、それを機能させるのは政治家でも法理下でもなく、市民であるという認識が薄れ、形骸化したときに国民の財産を不正、不公平に分配するような流れができあがり、強いてはそれが戦争ビジネスという人類がいまだ絶つことのできない金の生る木の誘惑にそそのかされることになるのだと考えている。
 人は自分を悪だとは思えないし、愚かだとも思いたくない。もちろんどちらも人から言われたくない。選挙に行かないことは悪であり、愚かなことだと言ってしまっては議論の前に感情がぶつかり、争いしか生まない。
 それで喜ぶのは果たして誰なのか。そこを考えればたとえ死に票になろうが、現政権に入れようが、投票をすることで投票率があがり、投票率が上がることはすなわち浮動票が増え、与党も野党も支持者以外の有権者にアピールをしなければならなくなる。そこで嘘八百手練手管で当選したとしても、ぼろはすぐに出るだろうし、次の選挙で落とせばいいだけの話だ。
 投票しないことは現状維持でいいと考えているのならそれもよしだが、そうでなく、政治への不信感や投票しても何も変わらないという考えで投票に行かないと考えているのであれば、向こう20年間、投票をし続けてどうなるかを監視すればいい。大した労力でもないし、投票した後ニュースもみなくともいい。しかし、空気が悪くなり、住みにくい世の中になったと思えば、どうせ一票いれるのならそれを変えてくれそうなところに入れてみるかと考えだすかもしれない。

 などと、いい大人に言う気はさらさらないので、僕はその話を続ける気にはなれないのだけれども、ああ、そのわかり方は選挙に行かないと言い張るのと変わらないのだなという自戒の念を込めて、ここにメモを残す。

 世の中に無意味なんてことはない。無駄な努力はそのとき報われなくとも何もしないよりは、何かを知り、何かを感じられる。無駄なことなどない。無益なことはしたくなくとも、無理なくできることならばすればいいのだ。難しいのは何事も最初だけ。簡単なことほど、容易なことほど、それを正すのはより難しくなる。だから選挙に行く。行かないという人には行ったほうがいいと言う。
 たかだか数回の国政選挙で物事が変わるものでもない。自分のあとの世代に迷惑だけはかけたくない。それは政治への関心あるなしの話ではない。過去から託された民主主義の火のリレーをここでやめるのは、もったいないじゃないか。

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