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心の庭

自分の中の、どす暗いものに向き合うとき、それは葛藤という名の戦争になる。
どす暗いものの正体とは、欲望であり、渇望であり、それを堕落として正しさを貫こうと戦いを挑むのは、果たしていったい何なのであろうか。

正義感、倫理観、道徳的観念、それらの連合軍なのだろうか。
或いは自我を形成する自己意識、俗な言い方をすれば魂のようなものが、抗おうとしているのだろうか。

人の心の迷いとは、すなわち葛藤であり、迷う理由は人それぞれであり、時々であり、戦場は多岐に渡る。

紛争と呼ばれるものは、常にあちらこちらでおきており、早ければ数時間で平定されるが、完全に駆逐することはできない。

つまりそれは火種となる何か、正義感や倫理観、論理的あるべき論が蹂躙しようとも、雑草の根のように地に潜み、やがてそれは芽吹き、きれいに生えそろえられた芝生を突き破り、あたりを枯れさせながら成長していく。

人の心とは闇を育てる苗どころなのかもしれない。
それを刈り取ることを忘れると、芝は荒れ、まっすぐ進むことを妨げる。

しかし心を焼き払ってしまえば、すべて根絶やしにしてしまう。
それは心の死を意味する。芝が広くなれば広くなるほどすべての芝の整備に気をとられるわけにも行かず、日常の整備の中からもれてしまうところは常に雑草が生長する機会をうかがっている。

広い芝生を完璧に整備するには、それができるだけの器量を求められるが、人の日常はそれを許さない。休息も必要だし、目が曇ることも、疲れて手入れが行き届かないこともある。

人の心の営みは、かくも生々しく、非効率的なのだ。
それは人の営みとも一致する。
故に人の世に闇はなくならず、人の心に闇がなくなることはない。

闇を抱えよ。
闇を見据えよ。
刈り時を見極めよ。

平和や安寧とは、それほどの努力をしても、簡単には得られないのだから。

わたしは今日も戦う。
この果てしなき終わらぬ抗争は、死を得るまで終わらない。
公正に見事に整備された庭を残すことを是とし、人は正しくあらんとする。

欲にまみれた異端なる楽園に目を奪われてはいけないのだ。
しかし、その魅力のなんと強烈なことか。
わたしはときどきそのような異端なる楽園に散歩に出かける。
甘い香りと目を引く色鮮やかな花に気をとられ、自分の庭を整備することを忘れて数日を過ごせば、またあちらこちらに雑草が生え、ともするともう、これでいいかと諦めてしまう。

だが、あくまでそこは他人の庭なのだ。
いつまでもそこにはいられず、閉園の時間に追い出されてしまう。
日は暮れ、寂しく荒れた自分の庭にもどったとき、わたしは思うのだ。

なんのためにわたしは、わたしの庭を整備し続けているのだろうと。
日は沈み、やがて日が昇り、朝露が輝くとき、これではいけないと、また宣戦布告をして雑草を刈り取る自分を取り戻せるかどうか。

だが、今朝はどうにも起きられない。
そんな怠惰な日々を続け、魅惑の楽園に足蹴なく通い続ける。
庭はあれ、まともに芝に日があたらないようになれば、闇は深まり、芝は腐る。

闇に落ち、心荒れ果てたとき、空を見上げ、日の光を懐かしむのなら、それもいい。
だが、わたしは重い腰を上げて、また自分の庭に出る。
そこは自分の場所なのだから。
自分自身なのだから。
今日こそは、庭をきれいにしよう。

隣の庭から甘い香りが誘おうとも、色彩豊かな花々が誘おうとも。
わたしは知っている。
本当に居心地がいい場所は、ここだということを。
誰に愛されずとも、誰に見られずとも、わたしは、わたしの庭が好きなのだから。

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