見出し画像

【心の解体新書】の前半まとめ~心のメカニズムを解く自由研究日記


#勉強記録

 数日前、音楽仲間であり、よき飲み仲間、よき人生の先輩と数年ぶりに神田の居酒屋で飲む機会を得た。彼は千鳥ヶ淵ブルースショーというおやじバンドでボーカルを担当しています。その音楽的クオリティもさることながら、歌詞のセンスにとことん惚れました。

 経験上、僕の好きな歌詞を書く人は酒を飲んでも愉しい。そんな彼と落ち着いた雰囲気の老舗居酒屋で筆者は宿題を頂きました。
 ひとはなぜモノマネを面白がるのか
 ひとはなぜ幽霊を怖がるのか

 いや、そりゃあ誰だってモノマネ芸は面白いし、幽霊観たらビビるやろうって思うかもしれませんが、本当にそうでしょうか。自分がそれほど知らない有名人・著名人もそうですが、知り合いでもない「上田駅にいる酔っぱらいのおっちゃん」のものまねのどこが笑えるのでしょうか。
 幽霊を信じている人も信じていない人も幽霊を怖がる。別に幽霊を見たからといって自分に危害を加えるわけでもなし。そこに存在していることがどうしてそんなに怖いのでしょうか。

 筆者はある仮説を提示しました。それは人間には補完能力があり、知らないもののモノマネをみてもなんとなくそのおかしさを想像する能力があるのではないか。幽霊を怖がるのも得体のしれないものは危険だという想像が働くのではないか。その原因はある事実と自分の知る面白いこと怖いことを紐づけるための「不足している情報」を脳が勝手に補完して「これは笑える、これは危険だ」と反応してしまう。

 およそこの仮説は有力であるとした上で、また次の機会にこの話の答え合わせをしようということになりました。彼はうれしいことに筆者が様々な「気になること」を掘り下げて文章として残していることを評価して頂いており、それに応えるべく『大人の夏休みの宿題』をnoteに記録することにしました。それが『心の解体新書~人はなぜ幽霊を怖がり、モノマネで笑えるのか』というマガジンです。

 今日の日付で8.感情と知識の相関図まで検証分をアップしています。具体的には以下のような項目を書き進めていく予定です。
・人はなぜ心を持つようになったのか
・心の機能――身体と心の関係と心の役割
・人はなぜ笑うのか
・人はなぜ怖がるのか
・心と感情と知識の相関図
・心は鍛えられるのか
・共通認識と普遍性
・心の言語化と会話の役割
・幽霊をモノマネすると人は怖がるのか
・心の解体――計算可能な心と不確定要素

 前半では人はなぜ笑うのか、怖がるのかという人間の性質について検証をしています。筆者はこれらについてなんら専門的知識を有しているわけではないのですが、ネットで調べることくらいはできるので有力な説をピックアップして紹介しています。
 特になぜ人類は「笑う」という能力を得たのかということに関しては神田での会合で彼から有力な説を聞いていたのでそれをヒントに調べ、筆者なりの仮説を立てた。

 人が笑いを獲得したのは、たとえば誰かが危険を察知して、危ないぞ!というサインを集団に出す。集団は身をかがめ、臨戦態勢に入ります。ところがそれが勘違いであったことに気が付いた時、大丈夫だ、ただの風だったようだとなったとき、臨戦態勢=緊張状態を解くために、笑みを浮かべ大きな声を出して笑うことで緊張からの解放と緩和をする術を身に着けた。それが『2.音笑:laugh(ter)』の獲得だという説が有力だ。

【心の解体新書】5.人はなぜ笑うのか(赤ちゃんと笑いの獲得)

 神田での会合で彼は「笑いとは緊張と緩和だ」と述べていた。これについては有名お笑い芸人がそのようなことを言っていたことを記憶していたのですぐに合点がいった。しかしその緊張と緩和が笑いを起こす大きな要因だとすれば、人はなぜそれによって笑うようになったのか。逆に言えば笑うという機能が必要になったのかと考えれば「安全や安心、敵意がないことを示す微笑」に対して声を上げ、手を叩き、泣きながら笑う「音笑」すなわち大笑い、爆笑はより多くの人に緊張から緩和へと切り替えるためのサインだと考えれば納得がいく。
 このようにして笑いに関して分類や役割を検証する作業は物語を書くことが好きな筆者としては苦手だった「文章で笑わす」という難題のヒントにもなった。
 はたして4.人はなぜ笑うのか(笑いの分析)で試みたような「笑いの起きるシチュエーション」としてドリフのコントを紹介した例文が読者の笑いを誘うことができたのならいいのだが、そのあたりはぜひコメントに残してほしい。もちろん批判でも構わないが、できれば「こうしたら面白くなる」という添削もお願いしたい。筆者は学びたいのである。

 他に興味深かったのは言葉を知らない赤ちゃんがなぜ笑うのか、そして動物は笑うのかという研究があるということを知ったこと、そして笑いと脳科学の研究が近年進んでいること並びに、それでもまだ解き明かすことが難しいという事実である。
 はたして人類は笑いのメカニズムを完全に解明することができるのか、今後の研究に期待したい。

 次に筆者の得意分野でもある「恐怖」という感情と心の動きとその役割について妖怪やモンスターを例に持論を展開した。

 筆者は妖怪が好きだ。そしてその中でも雪女の話が大好物なのだが、これには幼少の頃の体験が大きく影響している。両親が共働きだった筆者は学校が終わると学童保育クラブに行って親が帰宅する時間まで同じ境遇の小学校低学年の学童と施設の中で遊具で遊んだり、屋上で鬼ごっこをしたりして過ごしていた。もちろん宿題をそこでやるのだが昼寝の時間があり、その前に先生(指導員)が本を読み聞かせしてくれたのだが、そこで聞いた雪女の話が怖くもあり、不思議であり、切なくもありいろいろな感情が書きたてられた経験がある。
 結果的にそれがラジオドラマを好んで聞く素養になったのだと思う。本を読むのが苦手だった筆者にとってのちのちコミュニティFMのラヂオドラマの脚本を1年間担当させてもらう機会をえることになるのだが、そこで書いていたのはやはり奇談・怪談に属するものだった。
 根は怖がりで、ホラー映画を好んで見たりはしない。しかしその物語に何か心に引っかかるものがあれば、怖いのを我慢して今でも見ている。
 おかしな話である。怖いのが苦手なくせに、そうした作品を見たり読んだりするし、キャンプなんかで怖い話をすると、大体筆者は誰かをパニック状態にするくらい怖い話をする。ゆえに筆者はそんな自分が「怖い」と思うことを人に伝えることの意味を考えずにはいられないのである。

 ここでは妖怪の成り立ちと都市伝説への変遷、そしてメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』を取り上げて、恐怖がどのうように大衆に消費されてきたのかを解説した。結論として幽霊という存在は人間の恐怖の最後の砦としているが、その反面、筆者には人が「怖がる」という感覚に対して麻痺してきているのではないかと危惧もしている。
 未知のもの、自分の常識を超える事象や存在、そして知識の及ばないものへの恐れや慄き、畏れや無力感のようなものは現代において次々に駆逐されて行っているように思えてならない。恐怖が娯楽として消費されるようになってからそれほど時が経っているわけではないが、何かに驚くということは、人間の生命活動にとって重要なセンサーでもある。
 そして極力それをさけることが可能になってきた今という時代においてそうした創作作品の役割は大きいように思える。
 7.人はなぜ怖がるのか~お化け屋敷とポルターガイストではブギーマンや映画「ポルターガイスト」を例に挙げ、未知なるもの得体のしれないものに対して経験や知識の差がどのように現れるのかを検証し、人が幽霊を怖がる理由についてひとつの方向性を示しました。

 笑いは緊張と緩和がキーになり、恐怖は経験や知識がキーになる。赤ん坊がなぜ笑うのかとポルターガイストの幼い少女がなぜ大人が怖がる霊的な存在に対して恐怖心よりも好奇心を抱いたのか。そのあたりを踏まえて8.感情と知識の相関図では笑い話と怖い話がどうして日常の会話の場にあがるのかということに焦点をあてて、電柱にまつわる笑い話と怪談を例に社会的共有に到る仕組みを検証してみました。

 ちょうど今、このマガジンは折り返し地点、途中で題目が変更になることもあるかもしれませんが、宿題を提出するにあたり、最終的には心の動きは計算可能であるかどうか。可能であれば幽霊を怖がる計算式とモノマネを笑う計算式が求められるかもしれない。近年では量子物理学のアプローチを応用して計算可能な心と不確定要素を論ずる動きがあります。最終的にはロジャー・ペンローズ著『心は量子で語れるか』をもう一度読み込み、笑いと恐怖の正体に近づこうと思います。

 それにしても人間の心は面白い。物語を書く上で登場人物の心の動き、行動原理やそれを裏付けるバックボーンはとても重要です。それがある一定の制度で出来上がっていれば、登場人物たちは勝手に物語を進めてくれます。あとは作者がデウス・エクス・マキナをいかに有効に発動させるかではないかと筆者は考えています。この宿題を完遂することには、筆者の物語執筆のアプローチも変化があるかもしれません。
 それに期待しつつも、今はただただ、この宿題をやるのが愉しい。これはその中間記録として残します。

 最後に、あの有名なホラー作品『シャイニング』のお話をしましょう。この作品はスティーブン・キング原作でスタンリー・キューブリックが監督をし映画化しました。ご存じの方も多いかもしれませんが、キングは配役から脚本から映像まで、すべて否定的です。しかし人々にとって、あのエレベーターから血の波が押し寄せてくるシーンや双子の姉妹の映像が「恐怖の象徴」として心に刻まれています。このあたりはその後の映像作品にいろいろな形で踏襲されていることからも伺い知ることでできると思います。キューブリックがキングの創作物から何を怖いと思い、どう描こうと思ったのか。それに対してキングは称賛することなくいまだに不満を漏らしているのか。そこには恐怖に対する言語的アプローチと映像的アプローチの違いがあったのかもしれません。
 果たして夢に出て怖いのはどちらでしょうか。同様に都市伝説というのは口頭で伝承され、話題になると映像化されることがあります。呪いのビデオという都市伝説は鈴木光司氏によって小説となり、貞子というホラーのアイコンを誕生させます。それは呪いという姿かたちの無いものを髪の長い女性が井戸から這い上がり、それがテレビから飛び出してくるというビジュアル的な恐怖として大衆に認知されます。もうその時点で小説の根底に走る恐怖の源泉は、総合リラクリゼーション温泉のよにアトラクション化され人々に消費されていきます。
 恐怖の伝播が簡略されることとモノマネというスタイルが笑いの一ジャンルになることはとても似ているように思えるのですが、皆さんはどう思うでしょうか。やはり本当に怖いものには近寄りたくない、理解もしたくないというのが人間の本質であり、同時に人が笑っているのに自分が笑えないというのも社会的な生き物である人間には危ういことであり、反射で笑ってしまうのではないか。
 そんなことを考えながら筆者はこの先もこの宿題をできればこの夏のうちに終わらせたいと考えています。同時にここから派生したテーマ。「人はなぜ寅さんを見て泣いて笑うのか」「ドリフを見て怒る大人と笑う子供」といったテーマを検証しながら人の心のメカニズムを解体していきたいと思います。
 読者の皆さんはどんな心の動きに興味があるのでしょうか。ぜひ、ここにコメントを残していただければと思います。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?