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【心の解体新書】8.感情と知識の相関図

【心の解体新書】は筆者が一年後(2025年夏)までに『人はなぜ幽霊を怖がるのか、人はなぜモノマネを笑うのか』というお題に対して答えていくための思考メモです。そのために
・人はなぜ心を持つようになったのか
・心の機能――身体と心の関係と心の役割
・人はなぜ笑うのか
・人はなぜ怖がるのか
・心と感情と知識の相関図
・心は鍛えられるのか
・共通認識と普遍性
・心の言語化と会話の役割
・幽霊をモノマネすると人は怖がるのか
・心の解体――計算可能な心と不確定要素
といったテーマを今後掘り下げていきます(改変、追加削除あり)

 ここまで笑うこと、そして怖がることについて検証をしてきたが、何に笑い何に怖がるのか、そうした心を人はどうやって獲得し、どう社会生活や個の生命維持においてどのような役割を持つのかを検証してきた。
 ここでは感情と知識「笑う・怖がる」に対してどういう関係性があるのかを具体的に検証していきたい。まず、読者においてはこのような経験が必ずあるはずだ。それは面白い話、怖い話を人から聞いた時に笑えた時と笑えなかった時があり、それが場合によってはあとから面白さや怖さを理解するといった経験だ。
「この前さぁ、面白いことがあってさぁ」とあなたに語り掛ける友人は、もうすでに顔がにやけている。

「信号待ちをしているときに、若い兄ちゃんが歩きスマホをしているのが反対側の歩道に見えてさぁ。ああ、このまま歩いたら電柱にぶつかるなと思っていたら本当にぶつかったんだよ。こっちの視線には気づかなかったみたいだけど、何事もなかったようにそこをいったんは素通りしたんだけど、2~3メートル歩いてから後ろを振り返って「そんなとこ突っ立ってんじゃぁねーよ」って電柱に向かって文句いっていやがんの。めっちゃ笑えない?」

 それほど面白い話ではないが、何をおかしいと彼が楽しそうに笑っているのは理解できる。それを理解したことを友人に伝えるためにあなたも笑顔で「うけるね」とか「笑えるね」と相槌を打ちながら、その人は怪我をしたりスマホを落として壊したりしなかったかと尋ねてしまいます。
 そうなるともう笑えません。この友人はあなたの反応に満足ができずに、この話にいささか脚色をして後日、別の知り合いに披露します。

 「この前大阪に出張で行ったんだけど信号待ちをしているときに、おっちゃんが歩きスマホをしているのが反対側の歩道に見えてさぁ。ああ、このまま歩いたら電柱にぶつかるなと思っていたら本当にぶつかったんだよ。そしたらその人の頭が変な方向にずれたから、一瞬大怪我でもしたのかと思ってよく見たら、そのおっちゃんのカツラがずれていて、しかもそれに気づかないでそのまま2~3メートル歩いていたら、通りかかったおばちゃんに、『カツラずれてますよ』って言われて、慌ててカツラを直してその場から逃げるように小走りに去っていったんだ。それを見てたおばちゃんが一言『礼も言わずにズラかりおった』だって。めっちゃウケない?

 そこであなたは「そんなことあるかぁ!」と突っ込める人なら二人で大爆笑するでしょう。筆者の笑いのセンスはおいておいて、この例題からいろいろな感情と知識の相関図を検証してみましょう。
 まず友人=話し手は、スマホ歩きで電柱にぶつかるという他人の失敗を面白いと思い、自分も思ったのだから、誰でも面白がるだろうとこの目撃談を披露しました。
 ところが思いのほか反応が薄かった。ここで語り手に現れた感情は「人の失敗は面白い」と自分が感じ「それを誰かに伝えたい」という共感欲と、「きっと誰にでも笑ってもらえる」という期待です。そこには語り手の感情と知識の相関関係において「自分が面白いと思うものは他人も面白い」とする経験からくる知識が見受けられ、誰かに話せばさらに楽しいと思ったのででしょう。
 注目すべきは「人の失敗は面白い」という感情です。これはなんでも人の失敗が笑えるという話ではありません。「こういう失敗談は笑える」という知識があって、この話は笑えると判断したのです。もしこれで歩きスマホをしていた人が大けがをしたというのなら話は別です。それはむしろ危険に対する怖い話に属するからです。
 このように人の心は感情と知識の相関図によって「何が面白くて、何が怖いのかを判断し人の行動を「誘導」します。

 次に話し手はこの失敗談がより面白く人に伝わるように場所を大阪に限定し、ただ電柱にぶつかっただけではなく、カツラがずれ、それに「ズラかる」というダジャレでオチをつけ「大阪のおばちゃん」という面白いキャラクターを登場させます。
 それはあまりにも出来すぎな話なので、誰もが「そんなはずはない」と突っ込みます。そしてこの流れはいわゆる漫談の流れになり、多くの人がこの話に突っ込みを入れて笑えるようになります。
 これはまさに知識が感情にどう影響するかを逆手に取った作り話ということになるのですが、ここでおっちゃんがけがをしたかどうかを心配する人はまずいないでしょう。

 さて同じエピソードも怪談にすることができます。話の構造は「歩きスマホ」というやってはいけないこと=原因に対する結果が恐ろしい結末になるよう情報=知識を配置すればいいわけです。具体的にはまずシチュエーションを夜に換えます。当初の若い兄ちゃんは「そんなとこ突っ立ってんじゃぁねーよ」と言いながら振り返るとさっきまであったはずの電柱がなかった。不思議に思いながらも気を取り直してまた歩きスマホをすると「危ないよ」とどこかから声がする。振り返ると先ほどの場所にまた電柱が現れ、そこには小さな男の子がたってこっちを見ている。子供が夜中に一人でいるだけでも不気味なのに、その子は頭から血を流している。怖くなってその場を逃げた男は、後日この場所で子供が自動車にひかれた事故の話、その少年はうっかり車道に飛び出して事故にあったのだが依頼、時々同じように事故にあいそうな人に「危ないよ」と声をかけているのだと聞く。

 ここで人の感情と知識は「夜中に血だらけの子供」という不気味な存在に恐怖します。これはありえないことが起きていることに対する警戒心。あったものが見えなくなり、またその逆に見えなかったものが見えたりする。これも異常なことなので警戒します。そして事故があったという事実(それが作り話だったとしても)から、「幽霊が出てもおかしくない状況」と判断する知識がある人にとっては十分に怖がらせることができます。

 重要なことは「大阪のおばちゃんは面白いことを言う」という知識や、「事故にあった人の幽霊がその場所に出てくる」という地縛霊という存在の知識があるかないかで、面白さも怖さもかわるし、幽霊を信じない人にとっては「酒でも飲んでよっぱらっていたんじゃないか」ですまされ、怖い話にはならないということです。

 人の心は何を知っているのか、それをどう感じるかに左右され笑ったり身震いをしたりという身体の反応を起こさせます。そして面白い話も怖い話もそれを知った人は誰かに言いたくなる。筆者はこれこそ人が獲得した心の役割ではないかと。つまり笑いや恐れを誰かに知らせたいと思うことが生命存続の知恵=機能として人類は有しており、楽しいこと=楽しい場所、生存に適した環境と危険な場所、生存に不向きな場所を体験ではなく言語によって「社会的共有」をすることで生存率を高めたと考えます。

 考えてみれば他人の失敗が面白いなんてどうして思うのでしょうか。それはつまるところ、そんな失敗をして笑われないようにしようと誰もが思うからではないでしょうか。そうして考えると自分たちの日々の行動はすべてプログラムによって動いているかのように思えて、なんだか怖くなるのは筆者だけでしょうか。
 しかしながらAI技術がいかに発達しようと、他人の失敗談を面白がって人に伝える機能をプログラミングすることなんて実際に可能なのでしょうか。それは命とは何かを「心で感じること」ができるかどうかにかかっているのかもしれませんね。
 逆に言えばもしも不死不老の薬など発明して誰も死ななくなれば、世の中は面白いことも怖いこともなくなり、とてもつまらないものにみえてしまうのかもしれません。

 だからこそ人は何が面白いのかをまじめに考えたり、どうしたら怖がらせることができるのかとあれこれ工夫をする。実に面白いとおもいませんか。そんな筆者は人を笑わせるよりも怖がらせる方が得意なので、よかったらこちらの作品を読んでみて下さい。怖がってもらえれば幸いです。

 こたつで寝たらだめだと、昔よく親に叱られたものです。なぜこたつで寝てはいけないのか。それはこんなことになるからかもしれません。

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