最後の晩餐~土曜日のタマネギ

もうずっと昔に書いた作品を書き直していて、今、主人公の二人が別れる場面

驚いたことに涙が出そうになった(いや、出た)

『元気で』と言う言葉を『お元気で』と書き直した程度なのだけれども

このエピソードに至るまでの35話分は、わりとガッツリ手を入れたところもあるけど、36話『最後の晩餐』の修正はそのくらいだった

ほんの些細な言葉の違いなのだけれど、「お」をつけるだけで、とても他人行儀な感じがする

よかったら読んで下さい

第36話 最後の晩餐

「じゃあ、土曜日に」

 電話にツーコールで出たあの人は、どこかよそよそしい――というよりも何かものすごく申し訳なさそうで、めずらしく言葉のはしはしに迷いが感じられた。

 でも、いい。

 それはあの人の迷い。

 わたしの迷いじゃない。

 わたしはあの人に会いたいという衝動からは解放され、心は自由だった。

 でも、だからといってなにも不安を感じないということとは全然違う。

 夜は心細かった。

 でも、大丈夫。

 みんながわたしを支えてくれる。

 サッチンもアッコもキヨミも、いつもわたしを心配してくれるし、励ましてくれる。

 部長は暖かく見守ってくれるし、間違った時は叱ってくれる。

 部屋にいるときだって、独りぼっちじゃない。

 ときどき、うっとうしいと思うこともあるけど、無骨な冷蔵庫も、おしゃべりなコーヒーカップも、皮肉屋の鏡も、みんなわたしを気遣ってくれる。

 それでも、どうしようもなく、人恋しくなることがある。

 わたしは気付いてしまった。

 あの人じゃなきゃいけないと、あの人しかいないと思いつめていたわたしは、本当は、誰かに甘えたくて、誰かに寄り添いたくて、誰かに支えて欲しくて、誰かに包んで欲しくて、そんな気持ちを押し殺してきたわたし自身のもう一つの顔、もうひとりの自分、抑圧されていた自分があの人の前にいるときのわたし。

 え? なに? なんだかわからなくなってきたわ

 兎に角、わたしはあの人と出会って知ることができた。

 そう、わたしはもう、あのときのわたしじゃなくなっている。

 ただ、怯えて、怯んで、自分の庭でしか心を解き放てなかったわたしは、あの人の腕にしがみついて、どうにか外の世界にでることができた。

 このままあの人の腕にしがみついて、どこまでも、どこまでも歩いていきたいという気持ち……それはある。

 あるけど、そうじゃなきゃいけないという、そういう衝動みたいなものは、驚くほど、小さく、小さく、でも無視できないような場所にぽつんと存在している。

 あの人の事が好きな気持ちは、どんなことがあろうとも、変わる事がない。

 そのとっても、とてもピュアな部分だけで、恋愛ができるのなら、人はどんなに自由なんだろう。

 でも、それはわたしが今、いるべき場所じゃない。

 それは、はるか昔、わたしが少女と呼ばれ、笑顔で「はい」と答えていた世界での話。

 過去にはあっても、未来にはない世界。

「あの人とのことは、今はあっても、未来は……」

 待ちに待った約束の土曜日――ぐっとこみ上げてくるものをこらえて、わたしは部屋をでる。

「いってきまーす」

 わたしはカラ元気を羽織って、買い物に飛び出した。

「いってらっしゃーい」

「財布忘れてない?」

「買いすぎるなよー」

 コーヒーカップ、洗面台、冷蔵庫が快くわたしを送り出してくれる。

 タマネギ、ニンジン、ポテト……そしてあのときと同じ、キャベツをひとたま

「ぐっ……重いな、これ、あ、あとは、ウインナーっと、コンソメはまだあるから大丈夫……よし!」

 ポトフの材料を買い揃える。

「なにさ、これくらい、たいしたことないもん!」

 レジ袋ふたつ、両手に下げて、少しばかり、しかめっ面のわたしは、さぞかし可愛いく見えてに違いない。

 違いないんだから!

「ダンスはうまく踊れないけど、盆踊りならできるわさ」

 あの日のように、軽やかな足取りではないけれど、力強く、しっかりとした足取りで、部屋にもどった。

 時計は2時を回っていた。あの人が来るのは5時過ぎ、部屋を少し片付けてから台所へ。

 これからやることを頭の中で整理する。

「まず、じゃがいもを洗って、皮をむいてボールに入れて水を張るでしょう。タマネギとニンジン、キャベツをザク切りにして、そうそう、先にお鍋に水を入れて沸かさないと。で、沸騰する前にコンソメをいれて、鍋が煮立ったら、具を全部入れる。で、中火で15分くらい煮込んだら、ウインナーを入れて、弱火にして、5分くらい煮て、火を止めて、鍋を冷ます。冷ましている間に、味がしみ込んで、もう一度火を入れるときに塩コショウで味付けね。よしよし! あとはあの人が来るのを待つだけね!」

 料理に取り掛かろうとしたとき、急にわたしの中に不安な気持ちが渦巻き始めた。

 どこか気持ちがそわそわしている。

 料理はきっとうまく行く。

 でも、あの人が来るかどうかは、わたし次第じゃない。

 わたしは待つしかない。

 今まで、不安になることはなかった。

 あの人が来ないなんて、そんなこと、考えたこともなかった。

 なのに、ことの時ばかりが、どうしようもない不安がわたしを押しつぶそうとしていた。

 エプロンをするのも忘れて、頭の中はあの人のことばかり、ついつい手元もおろそかになる。

「痛っ!」

 ニンジンを切る手がすべった。

「もーう、バッカみたい!」

「大丈夫、傷は浅いぞ……」

 小指から、少しだけ血が出ている。

「大丈夫かい? ほら、みせてごらん?」

「えっ?」

 一瞬あの人の声が聞こえたような気がした。

 そう、わたしは大丈夫。

 大丈夫なのに、あの人は本当に心配そうにわたしの指を眺めて言うの。

「馬鹿だなぁ」

 違うわね、あの人はきっと本気で心配して、僕が変わりにやるとか……ううん、『何か心配事でもあるの?』てそんな感じかな。

 自分でそんなことを考えて、ほとほと馬鹿馬鹿しくなってしまった。

「馬鹿だなぁ……もう」

「来るかなぁ」

「プルルル…プルルル…」

 いつになく、電話の呼び出し音が、無機質に、冷たく感じられた。わたしはその電話に出る事が、すべての終わりになるような、そんな予感がした。

 でも大丈夫、わたしは、もう、大丈夫なんだから……

 自分ではしっかり気持ちの整理が出来ているつもりだったけど、いざとなると体が震えてしまう。コンロの火を止めて、電話の前まで来ると、もう逃げ出したい気持ちで一杯になっていた。

 電話に出たくない。

 お願い。誰か、電話のベルを止めて……

 いつもは陽気な電話の呼び出し音も、どことなく弱弱しく、申し訳なさそうにしている。そう、この電話はあの人からの電話。そして多分最後の……

「もしもし……」

 震える手で受話器を取り、そのことをあの人に気取られないように、なるべくいつものように電話に出た。

「ごめん、俺、いけない……もう逢えない……ごめん」

 あの人はいつもより少し低い声のトーンで切り出した。いつもと違うあの人。そう、あの人がいつもどんな感じなのかはわかるのに、普段のわたし――あの人の前のわたしってどんなふう?

 それって本当に普段のわたし?

「そっか……うん……」

 本当は何もわかってなんかいないのかもしれない。それともわかりたくないのかも……それでもわたしは電話口で申し訳なさそうにしているあの人を攻めたり、問いただす気にはなれなかった。

 そういうのは、ちがうと思った。

 なんだろう?

 不思議な感覚。求めても得られなかった答えがふっと浮かんできたような、思い出せなかった何かを急に思い出したようなそんな感覚。或いは夢から覚めたような、そんな感覚。

「うん、わかった……わかったわ。じゃぁ」

 そう、わかったような気がした。決めなければならないときに逃げちゃダメなんだ。

「えっ……あぁぁ……。そっか。じゃぁ、お元気で……」

 きっとあの人はいろんなパターンを想定していたのだと思う。

 そうでなければ、『お元気で』という言葉を、こんなに素直にはいえないだろう。

 ただ、もう少しだけ、話をしたかったのかもしれない。

 ううん、ちがうかも……

 とにもかくにもわたしたちは、このとき、出会ってから初めて素の自分――互いの顔が見えない電話越しに、素顔で話が出来た気がする。


37話につづく

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