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【往復書簡】聞き分けのないコドモ

\\\往復書簡、やってます///
人の話を聞くのが大好きな”めけ”と”ねる”が、あまり話を聞かずに好きなことをおしゃべりするお手紙マガジンです。

▼前回の手紙

 もともと書くのは早いほう。だけど書き始めるまでが遅い。この往復書簡に関して言えば、気分がのりのりなのか、返事が来た瞬間に頭の中では文章の骨子みたいのが出来上がっていて、それは自分が音楽を作るときに似ているのかも。ただ、整えるのに時間がかかる。さぁ書くぞってデスクに座るまでにいくつかのネタは零れ落ちてしまう。

 たぶん往復書簡を多くの人に読んでもらおうとするならば、決まったタイミングで更新されるのが望ましいのだろうけれど、聞き分けのないコドモは書きたいとき、書けるときにしか書かない。我ながら大人げない。今はハシャイでいるからサクサク書いている。大人はもっと真面目に手紙を書くものだ。その点で言えば、ねるのほうが大人だよね。優先順位がちゃんとあるもの。僕はほら、間を取っているつもりがついつい前掛りになってしまう。ドラムを叩いていてもすぐ走ってしまう。落ち着きのないコドモなのかもしれない。

 今回は好き勝手なことしか書いてないと思う。

 Dearマイフレンド
 ひまわりのきみへ

 My Friendって言い回しは、英語圏の歌詞でときどき見かける。和訳では「友よ」ってなるわけだが、小生には「だいじょうぶマイ・フレンド」というカルト的?な映画体験があって、マイフレンドと聞くとついついその主題歌を口ずさんでしまうのです。

原作はあの村上龍。そして映画を撮ったのも彼自身という異色の作品でその出演者たるや……。
ゴンジー・トロイメライ:ピーター・フォンダ
ミミミ:広田レオナ
ハチ:渡辺裕之
モニカ:乃生佳之
ドクター:根津甚八
ジュリアス:リチャード・ライト
レイ子:青地公美
頬刑事:タモリ(表記は「タモリ一義」)
DJの男:三遊亭円丈
店頭販売の女:研ナオコ
白衣の男A:岸部一徳
白衣の男B:苅谷俊介
白衣の男C:辻畑鉄也
白衣の男D:団時朗
暴走族風の男:船原長生
看守A:高橋幸宏
泣く男:小松政夫
看護人:武田鉄矢
ダンサー:富沢美智恵

wiki

 映画の内容は兎に角、この曲は故加藤和彦氏が書いていて、のちにリリースされる映画版マクロスの主題歌「愛・おぼえていますか」と並んぶ名曲ななのですが、『だいじょうぶマイ・フレンド』を作詞した安井かずみの功績こそ、この曲の神髄です。この二人がのちに結婚し、彼女は闘病の末、55歳の若さでこの世を去ってしまったのは本当に惜しまれる。
 闘病生活を題材にしたドキュメンタリードラマ『優雅な生活が最高の復讐である 〜加藤和彦・安井かずみ最期の日々〜』(NHK)はNHKアーカイブで覗き見ることができるが、号泣筆致なのでご注意されたし。

 いけないい、けない。なんでこんな話から書き始めてしまったのだろうかと考える。そうだ。ひまわりのきみに「返事が遅くなってもだいじょうぶマイ・フレンド」という書き出しを思い付き、それを説明しなければと思いのまま書いたらこのザマなのです。

めけの言い訳

「言い訳をする大人」というタイトルに引っ張られ「聞き分けのないコドモ」とするあたり、小生がいつまでも子供っぽい悪乗りを大人なやり口で、さも「達観している」「悟っている」みたいな佇まいを装うことを心掛けても、ついついこうして子供のようにはしゃいで、あれこれ余計な知識を披露する。なんともあさましい限りなのです。

 わたし自身の創作は、インプットとアウトプットにすごく偏りがある。

 おそらく、インプットは少ないタイプというか、偏りがある。

 あるときはカービィみたいに何でも吸い込んで、ネタ帳にもいろんなものが溜まってゆく。

ねる 言い訳する大人

 もう少しだけその話をしよう。
 かのデカルトが「Ego cogito, ergo sum, sive existo」日本語では「我思う、ゆえに我あり」と提唱したのはカール・マルクスの「De omnibus dubitandum(すべてについて疑うべし)」という懐疑的な思考によって疑っていくと中国の戦国時代の思想家の荘子のいうところの「胡蝶の夢」

夢の中の自分が現実か、現実のほうが夢なのか

wiki 胡蝶の夢

 という思考の迷路にはまり込むことへのカウンターとして

“自分はなぜここにあるのか”と考える事自体が自分が存在する証明である(我思う、ゆえに我あり)

wiki 我思う、ゆえに我あり

 となっているのど小生も思う。
 そしてこの言葉のインパクトはおそらく世界を変えたのだと小生は考えている。そしてこうした衝撃によって生まれた様々な作品、小生が愛してやまないゲーム、ペルソナシリーズではたびたびこの「胡蝶の夢」が登場する。そうしたゲームをプレイすることが小生にとってのよいインプットの片りんであり、なぜこういうストーリーでは蝶々なんだろうという疑問から胡蝶の夢にたどり着くのが小生の好奇心のなせる業。そしてこのギミックを使って自分ならどんな表現ができるのだろうかというのがアウトプットとなり、すなわち小生が好む日常と非日常のはざまの世界を創作することに繋がっていくのです。

 小生はこれを創作というよりも「紡ぐ」と捉えている。まったく新しい発想や発見に頼らずに、今、手元にある素材で紡ぎ、織り、カタチにすることに関してどこまで「聞き分けのないコドモ」でありたいと願うより先に行動してしまう。めけめけという生き物がもし動物園や水族館に展示されていたとしたのなら、そう説明書に書いてもらいたいし、できれば後者、水族館がいい。

 だから今度は水族館に行きましょう。

 わたしも最初は、妄想や想像を綴っていたのだけれど、最近の自分はそうじゃないって気がついた。だから「小説を書きたい」と願ったのだけれど、その話はさておいて

ねる 言い訳する大人

 世の中には小説を書こうと思って書けちゃうすごい人たちがいる。小生はそう考えている。思って出来るのは一種の才能だ。音楽でもなんでもそうだけど、好きだからなんとなくできているというのとやろうと思って出来ているのでは大きな違いがある。逆に言えばエッセイも同じで、小生はなんとなくは書けても書こうと思っても筆が進まない。
 たまたまそれっぽくなっているのは小手先のテクニックでしかなくて、エッセイとして読者に面白がられるというイメージが小生にはない。小説に関して言えば自分で読んでワクワクした経験をもとに、読み手をある程度意識できるから書こうと思ってどうにか書いている。小生はコンテストのお題にあった作品を書くのがわりと性に合っている。逆にお題にあったエッセイとなると、とたんに筆がとまる。

 憧れこそ原動力というのがあって、これがあるとないとでは一般的に言うと上達スピードや精度の高さに違いが出る。なぜならそこに手本があるからだ。小生の手本はSキングや夢枕獏、ときどき北方謙三や田中芳樹なのだけれどもエッセイに関してはこれがない。しいてあげれば吉本ばななや池田晶子

 小生は小学生で金田一耕助シリーズでおなじみ横溝正史やショートショートの神様星新一に出会い書きたいと願って、ねだって書けなかった。スティーブン・キングや夢枕獏に出会ったのがハイティーンでそのときもできなかった。できないのはたぶん普通のことなのです。
 手本があっても誰もができるわけではないのだ。

 いやあ、人に投げかけた質問で、自分をこんなに暴けるとは思わなかった。だから、書くことはやめられない。

ねる 言い訳する大人

 世の中には人に投げかけた質問に対する回答をそのまま受け取ることができる特殊な能力をもっている人がいるらしいですが、小生は質問の回答は鏡写しの自分であって、人に質問できる時点で実は答えは自分の中にあるものだと考えています。相談できるのなら解決できたのと同じ。相談できない、言語化できないからこその悩みであると。

『僕ら』という言葉をあえて使わせていただけるなら、僕らは互いをよき鏡、嘘をつかない鏡として機能するタイミングでこうして往復書簡ができているのかもしれませんね。人は鏡なしには自分の顔を見ることができない。怒っているのか、泣いているのか、笑っているのかは感情と感覚ではわかっていても、どんな顔をしているかは他人の反応を見ることでしか察知できない。よき鏡とは大丈夫な時は「だいじょうぶマイ・フレンド」という顔をして励ましてくれるし、そうでないときは一緒に悲しんだり、怒ったり時には中指を立てて叫んだりできる。
 よき鏡こそ、よきマイ・フレンド。

 願わくばひまわりのきみと水族館で泳ぐきれいな魚、珍しい魚、美味しそうな魚を眺めながらなぜサメ映画は作り続けられるのを語り合いたい。その時には下北沢で購入したジョーズのTシャツをシャチのように引き延ばして着ている小生の姿を笑ってくれる小娘であって欲しい。

 ああ、なんてきれいに締めたんだろう。自分で自分をほめごろしたい。

めけ 戯言

 追伸
 アーシャのアトリエが面白すぎてエンディングまで残り数日というところで最初からやり直している。2週目プレイはそこそこのアドバンテージがあるのだけれども、やりたいことをやりきるには微妙に足りない日数制限を相手に完全攻略しないと気が済まなくなっています。
 この次にどのアトリエシリーズをやるべきか。どのようにこのゲームが進化したのかを確かめるには早くクリアしたほうがいいのですが、もうしばらくアーシャと愉快な仲間たちの物語を堪能したいと思います。

▼今までの手紙まとめ


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