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発達障害を支える周囲の受容的な態度。できても、できなくてもOK牧場。

発達障害は「生きづらくて」大変だ。毎日、毎日が、針のむしろのような人生を歩んでいる。発達障害が診断された時に、ホッとするのはそのためだ。

しかし、発達障害の周りにいる人は、発達障害者より、もっと大変だと思うことがある。発達障害を抱える人は、周りの人の感じ方を細かに理解することができないこともあり(なんとなく変という不全感は分かる)そういう人を受容していくのは、並大抵の努力ではない。

私も就業中は、ほんとに多くの人に迷惑をかけた。(今はフリー)

よく、ASDやADHDなど、はっきりと診断されれば、周りの理解も進むといわれる。しかし、実際にはそれほど単純ではない。今まで「変な人」として知られてきた人が「ADHDの人」「アスペルガーの人」と分かったところで、周囲がすぐに受容的になるわけないのだ。

そこで、ADHDの特性を強く持つ立場から、周りがどのように発達障害とかかわっていったらよいのかについて考えてみることにしよう。

周囲の受容的な態度とは

精神科医の備瀬氏は、発達障害を持つ大人との関わりに関して、5つのアドバイスを掲げている。

1:三つの目のつけどころをもってPDDの特徴として理解する 2:苦手なところは、本人の責任ではないことを前提に考える 3:よいところ、長所を見つける。PDDの特徴のために起こる苦手な面は過度に非難しない。4:本人も、自分の問題点を自覚する。5:できれば、一つひとつの具体的な対応法は本人と話し合って決める。(「大人の発達障害 備瀬哲弘 集英社文庫 P188)

この本は、基本的にPDD(広範性発達障害・ASDとほぼ同義)に焦点を当てている。3つの目の付け所とは「1:社会的相互交渉の障害 2:コミュニケーションの障害 3:想像力の障害」である。ADHDには、そのまま当てはまることが少ないが、ADHDの場合は「不注意・衝動性・多動」とみておけばよいだろう。

いずれにしても、2、3、5は周囲が当てはめることができる点だ。もちろん、これは、発達障害を持つ側から要求できることではない。しかし、お互いにこれらの点を実行すれば、より過ごしやすくなるのだ。確かに、余分な配慮が必要かもしれないが、これはお互いのためなのだ。

発達障害の治療歴30年の精神科医本田秀夫氏が言うように、発達障害はひとつの「種族」のようなものだ。まったく違う国で生まれ育った人と仕事をするようなものだと、ポジティブにとらえて、付き合い方をマスターすればよい。

短所を克服させようとしない

発達障害の人には凸凹が多い。長所と短所の差が大きいということだ。もちろん、普通の人でも長所と短所には差があるが、それは、日常生活を営む上では、それほど表面化することはないものだ。しかし、発達障害の場合は、長所は90点、短所は10点というくらいに、あまりにはっきりと、その差が見える。集団生活の中では確かに迷惑だ。

平均的になんでもできることが普通とされる社会においては、発達障害の傾向は周囲の重荷になる。欠点のほうが目立つのだ。しかし、欠点を治させようという努力は、本人にも、周りにもストレスを与えるものになる。悲しいかな発達障害には、できないことはできない。これは事実として、割り切らなければならない。

そのうえで、どのようにかかわっていったらよいのだろうか。

とにかく受容する

発達障害の周囲の人は、本人の長所を、とことんまで伸ばす関わりをしたい。そのためには、まずは、できないことも含めて、その人を絶対的に受容しなければならない。NHKの朝ドラ「エール」はASD傾向を持つ主人公周囲のお見事!とまで言える受容的な態度を描き出している。

わき役として出てくる弟(佐久本宝)や店の丁稚にとっても、古山裕一(窪田正孝)の生き方は好き勝手すぎる。甘やかされて、感謝が足りなくて、自分の夢のことしか考えない強欲な男だ。しかし、主人公の裕一は、できないことは、本当にできないのだ。彼を「普通」の観点で見てはいけないのだ。

裕一にとって幸せだったのは、彼をとことん愛し受容する人たちに支えられたことだ。父(唐沢寿明)、妻の音(二階堂ふみ)、友人たちすべては、絶対的な受容をもって彼に接する。

どうしても作曲に成功せずに、癇癪を起こし、五線譜を破り捨て、本を投げ捨て、泣き崩れる裕一を抱きしめる音の姿が感動的だ。これを見ている時、私は「なんて、どうしようもない男なんだ」とつぶやいていたのだから。

どんなことがあっても、音は裕一の可能性を信じ「あなたはできる。あなたには才能がある。」と言い続ける。この絶対的な受容。もっとも、この話が美談になるのは、裕一が日本を代表する大作曲家になるからなんだけど。(古山裕一のモデルは「古関裕而」)

ただ、この絶対的な受容がなければ、裕一が自分の才能を伸ばすことはなかっただろう。何をしても「できない、できない」だらけの主人公は、例え、できないとしても、「でも愛している」という絶対的な愛の中でどんどんと育っていく。

交流分析のOK牧場で言えば「Im OK」である。

~~ができたからOK、~~してくれるのでOKではなく。とにかく、その存在がOKなのだ。そのままでいいということを知る。これが、発達障害の可能性を最大限に伸ばす秘訣なのだ。

できなくてもOKの世界

前述のように、このような姿勢は、周りから見る人、わき役にとっては、イライラさせられるものになる。できなくてもOK、何もしなくてOK、そんなの不公平だと感じるのだ。しかし、ここで忘れてはいけないことがある。それは、私もあなたも、誰しもが、絶対的に受容されるべき存在だということだ。つまり、みんなOKなのだ。

発達障害を持つ人が絶対的な受容に値するように、「普通」のあなたも絶対的に受容されなければならない。誰しもが、~~できたからOKではなく、できてもできなくてもOKなのだ。発達障害を取り巻く周囲の無理解は、~~できたからOKが、この社会に根付いた信念だからだ。普通の人も努力して、なんとか~~できたからOKと言ってもらって生きている。

だから~~できていないのにOKと言われる人を見ると「ずるい」「不公平だ」と感じるのだ。誰しもが、できてもできなくてもOK。誰もが、絶対的な受容を受けていれば「私もできなかったのにOKだったんだ、あなたもできなくてもOKだよ」と言える寛容さが身につくだろう。

不寛容な社会の問題

だから、発達障害の問題は、不寛容な社会の問題なんだよね。社長や上司が「お前は、〇〇ができないのか。でも、〇〇ならできるな。だからOKだ。」と言ってあげればいいのだ。(自分で書いていて、そりゃ無理だよという気持ちになってきた、笑)

今一度、発達の特性について考えたい。発達の特性(普通の人も含め)は、できないことはできないのだ。言っておくけど、努力してできることは、できることなのだ。「普通」の人でも、努力しても、どうしてもできないことがあるに違いない。そういうところは、もうそれ以上努力させるところではないのだ。大いに生産性が落ちるから。(やってみないと分からないけれどね。少くとも三度はチャレンジさせたい。)

つまり、それはすべての人に、できないことはさせない・できるところに応じて仕事を割り振っていくという仕組みを創造するのだ。チャップリンがモダンタイムスで皮肉ったように、人間を機械の一部のように使う、今の社会の働き方のほうに無理があるのだ。

まあ、これは口で言うほど簡単ではないけれど。

少なくても私は、自分にも、他人にも、できなくてもOKを出し続けてあげることができる人になりたい。ある意味、それは「修行」だわな。


大人のADHDグレーゾーンの片隅でひっそりと生活しています。メンタルを強くするために、睡眠至上主義・糖質制限プロテイン生活で生きています。プチkindle作家です(出品一覧:https://amzn.to/3oOl8tq