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グリーフケアとしての葬儀の意義『お父さん、「葬式はいらない」って言わないで』橋爪謙一郎

これまで数々の、葬儀関連本を読んだけど、もっとも著者の心配りや温かさが伝わったのが本書だ。

著者は、エンバーミング・グリーフケアの第一人者で、アメリカの葬儀大学で本格的に学んだ経験を持つ。葬儀不要論でも、葬儀肯定論でもなく、遺族の心を支えるための葬儀についてじっくりと語られている。著者の見聞は広く深く、また、遺族に向かう眼差しは優しく、心を癒される大切な一冊となる。著者のバランスのとれた考え方は、あとがきのこのような言葉からもわかる。

「お葬式で省ける部分があれば教えてほしい」「必ずやらなければならないことと、そうでないことを教えてほしい」などと遺族から聞かれて、非常に考えさせられた。「葬儀とはそういうものじゃない」と決めつけることも、「だから葬式なんて要らない」と、すべて否定することにも違和感がある。遺された人の悲しみを受け止め、これからの人生を歩んでいく力をもらう、儀式としての葬儀をないがしろにしてはいけないからだ。」(P202)

お父さん、「葬式はいらない」って言わないで (小学館101新書) (日本語) 新書 – 2010/6/1 橋爪 謙一郎 (著)

「心」の問題を置き去りにして「終活」していたよ!と気付かされてしまった。私の終活の取り組みを一変させる力をもった良書で、文句なしに5つ星。私なりの終活やグリーフケアについての考え方も、まとめながら書評してみたい。

行き過ぎた葬式無用論

著者の立場は、基本的に「葬式必要論」だ。念頭にあるのは、最近、急速に広まっている、葬式無用論だ。私も、葬式をシンプルにしようと思ったきっかけは、島田氏の「葬式は、要らない」だった(参考:見栄と世間体からの卒業「葬式は、要らない」島田裕巳
そのため、葬式無用論に偏り、費用が高額である葬式への批判の観点しか持つことができず、遺族の心のケアとしての葬式を考えることはなかった。この本を読んで初めて、気付かされた視点があったことは認めざるを得ない。

もっとも島田氏の著作は、葬式無用論というより、既存の葬式仏教・戒名への批判本であることは忘れてはならない。やみくもに簡素化された別れの儀式の弊害もあることを知るべきだ。

「直葬の急拡大は、右に行きすぎて悪いと思ったら、一気に左に振りすぎてしまう、日本人の悪い癖が出ているのではないか、やみくもに簡素化された別れの儀式では、別の問題が噴出してきているように思えるのだ。その問題とは、遺族に必要な支援や、悲しみを癒やす機会が失われてしまうことである。」(P52)

「生と死の交錯する場面が見えなくなっただけに、現代の日本人は「死」に対して非常にナイーブだ。頭では理解していても感情を処理しきれない。あるいは、理解できる範囲で合理的にものごとを処理しようとする。そこにさまざまな問題が起きているのだ。急速に近代化した日本では、死別の悲嘆を癒やす知恵や仕組みが失われ、個人に任されようとしている。」(P43)

「死は、遺されたものがどう生きるかを考える機会である。「死者の送り方」=葬儀は、悲しむ人を支える知恵を集成したものであった。」(P44)

お父さん、「葬式はいらない」って言わないで (小学館101新書) (日本語) 新書 – 2010/6/1 橋爪 謙一郎 (著)

著者は、グリーフケアの専門家でもある。

グリーフというのは「悲嘆」という意味で、遺された遺族の心の傷を癒やす視点で考えた時に葬式無用論には危険がある。著者が述べるように「死別の悲嘆を癒やす知恵や仕組み」も失ってしまうことになるからだ。しかも、その代わりに提供できるものが無いなら、遺族は実に中途半端な状態になってしまい、結果として何年も、何十年も、悲しみや苦しみを抱え込んでしまうのだと言う。

グリーフ(悲嘆)は、身体的な傷(怪我)に似ている。最初は血が流れ、痛み、触ることも出来ない状態だが、やがて良くなる。相応しい介抱をするからだ。止血し、消毒し、包帯を巻き、ふさわしいケアをするので、やがて時間の経過と共に治っていくのだ。しかし、もし、傷口にバイキンが入ったりするとどうなるか?一切ケアをしなければどうなるか?化膿したり、傷んだり、いつまでも痛みはとれないばかりか、日常の活動まで制限されてしまうことになる。最悪の場合は、壊疽してしまう可能性だって無くはない。

既存のお葬式は、遺族の心を癒やす一定の役割を果たしてきた。もちろん、お金が掛かり過ぎることや、形骸化していることなど、問題点もなかったわけではないだろう。しかし、そのような「形」が一気に無くすとしたら、遺族の心をケアする役割の代替を確実に用意して行く必要がある。

家族葬がブームだが、葬式のときに、家族だけではなく、縁故のある方が集まることには意味があると著者は説明している。

家族葬ではわからないこと

「身内だけの葬儀は、故人の親族以外の人間関係を断ち切ってしまうことになる。遺族は、故人の意外な一面を知る機会を失ってしまうのだ。なくなったことを誰よりも悲しんでいるのは、家族である自分だと思っていたのに、故人の友人が悲しみに暮れていたり、たくさんの人から慕われていたことなどを知ることで、自分の悲しみの形がはっきりとわかりはじめる。しかし近親者だけの葬儀では、それがわからない。」(P54)

お父さん、「葬式はいらない」って言わないで (小学館101新書) (日本語) 新書 – 2010/6/1 橋爪 謙一郎 (著)

人は社会的な存在だ。家庭だけではなく、さまざまな関わりを通して生きている。家ではゴロゴロしている父親が、会社では多くの部下に慕われている上司だったり、昔からの親友の目からすれば、子供の頃から何も変わっていなかったり、一人の人に色々な側面がある。葬式のときに、家族を慰めるために故人の友人たちが来てくれることで家族は故人について新たに知り、そして、心の中に温かい思い出を持つ機会になると言う。

以前読んだ本で、まちの葬儀屋さんの三代目も自分の父を亡くした時のことを語っていた。

「私は27歳で父親の葬儀をしましたが、お別れの時、家族以外の方がこんなにも父の死をいたんでくれているのかと涙がでるほどありがたかったことを覚えています。自分の肉親が多くの人びとから大切に思われていたことを実感した時間でした。このお別れの時に、父親の生き様が初めてわかったような気がしました。」(P145)

ザ・葬儀のコツ: まちの葬儀屋三代目が書いたそのとき失敗しない方法 佐藤 信顕

「悲しみの儀式」としてのお葬式

著者は、葬式には4つの意味があると言う。葬式批判本が取り上げているのは葬式の一面だけであり、他にも考えなければならない点があるのだ。

葬式に含まれた4つの意味

「1:遺された人達があらためて、故人の人生を振り返ることができる機会
2:故人に感謝の念を抱く場
3:悲しい、悔しいといった思いに遠慮無く浸れる時間
4:霊の処理や供養など宗教的な意味

今は、明確な信仰があるわけではないから、葬儀は要らないという人が増えているのだろう。だがそれは四つの意義のうちの、四番目だけを取りあげて、宗教的な意味が失われたから要らないと言っていることになる。私には葬儀の意味が、ことさらに矮小化されているように思える。」(P58-59)

お父さん、「葬式はいらない」って言わないで (小学館101新書) (日本語) 新書 – 2010/6/1 橋爪 謙一郎 (著)

最近の、葬儀・葬式批判は主に、葬式仏教の批判だ。高額な戒名料やお布施。宗教心が無い日本人が、葬式の時だけ大枚をはたくのはナンセンスである。これが主に、唱えられている点だ。しかし、著者が言うように、葬儀には幾つもの役割がある。とりわけ、忘れてはならないのは、遺族のための葬儀の意味だ。

もとより、葬儀社に任せっきりの葬儀では、そもそも、遺族の心を癒やす効果が少ない。江戸時代には「葬式組」と呼ばれる組織があり、ムラで誰かが死ぬとすぐにムラ全体で、葬儀にあたり、同時に家族は大いにケアされた。ムラは面倒で、煩わしいものでもあるが、その反対の面として、温かく相互支援的だった。

故人がこれまで培ってきたネットワークの中で故人を送ることはやはり必要ではないかと私も感じる。著者は直葬であっても「お別れ会」を開くことを提案している。

「直葬の場合も、お別れ会などをあらためて開くことをおすすめする。お別れ会なら自分の納得のいく送り方も実現しやすい」(P97-98)

「アメリカの葬儀では中盤あたりで「シェア(Share)」という時間をよく設ける。言葉の意味通り、故人との思い出を参列者みんなで共有する時間である。」(P67)

お父さん、「葬式はいらない」って言わないで (小学館101新書) (日本語) 新書 – 2010/6/1 橋爪 謙一郎 (著)

直葬は、ごくシンプルなものだ。火葬を中心としたものであり、そこには一切の儀式的要素がない。もともとは身寄りのない人や、独居老人、ホームレスなどの葬儀の形態として生まれたが、(誰も付き添う人がいないので、火葬だけをシンプルに行った)現在では、直葬の割合が全体の4割くらいまで拡大しているという。

しかし、それだけでは、遺族の心を癒やすための場がない。故人の思い出を語り、遺された人たちが前に向かう区切りのための時間。私も過去に叔父の葬儀はこの形で行った。亡くなった直後は、直葬をすぐに行いましたが、その後、2週間ほど後に、300名くらいのホールを借りて、そこで、追悼式を行った。すでに亡骸はなかったが、故人の肉声や写真なども公開され、たくさんの友人達がやってきて、叔母を慰めてくれた。

やはり、それは、ひとつの区切りになった。そこで、また前を向いて歩もうという気持ちになった。

「葬式は、要らない」(島田裕巳)の中にも、中江兆民が「葬式は不要だ。葬式をしたら化けて出る」と言ったというエピソードが出ている。しかし、自由民権の運動に参画していた仲間達(板垣退助・大石正巳など)が宗教的なものを一切排除した「告別式」を開いたということが書かれている。これが、今の「告別式」の始まりになったそうだ。本人は葬式は不要であるという強い心情を持っているにせよ、遺族のことを考えると、何らかの場、整理をつけるための場が必要であるのは間違いないと分かった。

遺族の心のケアを考えた葬儀社の選び方

著者は遺族の心のケアを取り上げながら葬式有用論を上手に展開していくが、ムラ社会や、有用なネットワークが失われている現代社会ではどうしても葬儀社の助けを借りないと、最期の儀式は行えない。最後に、著者が語る葬儀社の選び方の知恵を取りあげてみたい。

大切なのは、遺族が葬儀に関して、できるだけ明確なイメージを持つこと。

「家族葬=安い葬儀=上客ではない」という葬儀業界側の思い込みから、できあいのパッケージに遺族は当てはめられてしまうことになる。これでは遺族は不満足だし、ますます葬儀への懐疑はつのる。・・・「送る側」になったとき、遺族は「家族葬」のイメージをできるだけ明確にしておくことが必要だ。その希望にきちんと耳を傾けてくれる葬儀社、葬儀担当者をあきらめずに探すのである。」(P105)

「経験や専門知識がなければ、葬儀ができない部分はもちろんある。それは葬儀社や宗教者などの「専門家」に依頼をすればいい。あくまでも彼らを、自分らしいお別れをつくり上げるためのパートナーと考え、力を借りればいいのである。遺族が主体的に葬儀の準備をしっかりすることで、自分たちにとって意味のある機会にしてほしい。」(P203)

お父さん、「葬式はいらない」って言わないで (小学館101新書) (日本語) 新書 – 2010/6/1 橋爪 謙一郎 (著)

著者は、エンバーミングを行う立場でもあり、葬儀業界とも深いつながりがあると思われる。だからこそ言えることかもしれないが、「安い」家族葬や、直葬などの場合、出来合いのパッケージで葬儀が行われてしまう危惧がある。葬儀社としての感覚で考えると確かにそう言えるのかもしれない。

従来式の葬儀には数百万かかることがあったが、最近では家族葬の普及により50万前後で葬儀を行う人も増えている。しかし、悲しみを癒やすための最後の儀式が、「安かろう、悪かろう」で終わってはとても残念なことだ。葬儀の口コミサイトでは、安さを強調した葬儀社の扱いに落胆したという人も少なくなかったようだ。費用を抑えるところではなかったと感じた人もいる。大切なのは、遺族がどのように葬儀を行いたいのかを事前に確認し、それを十分に打ち合わせることだ。パッケージでは、十分な葬儀が行えないのは当然と知る。

私の場合は、叔父の葬儀の時と同じように、葬儀屋に依頼し頼むのは直葬だけ、後のお別れ会や偲ぶ会は、個人的に友人たちに依頼しながら企画しようと思った。プランが明確であれば問題は無いだろう。

誠実な葬儀社・担当者を選ぶ

「ネット上で料金の比較はできても、誠実で良心的な葬儀社かどうかの判断はつけられない。・・公平な立場で紹介すべきところを、葬儀社自体が紹介サービスを装って、自社へと誘導する場合もあるから油断はできない。一社しか紹介しない場合は敬遠したほうが安心だ。多くの紹介サービスは複数の葬儀社を紹介してくれる。「セカンドオピニオン、サードオピニオンを聞いた上で判断してください。」という流れである。」(P101)

「紹介サービスのコネクトでは、「必ず担当者に会ってください。その担当者とウマが合うかどうかが大事。この人なら気が合うな、感覚が合うなと思う人に決めたほうが良い」とアドバイスする。依頼者の条件を聞いて、紹介する葬儀社を決めているので、葬儀費用はそれほど変わらない。同じように誠実であっても、最終的には気が合うかどうかで決めたほうが満足の行く葬儀ができることが多いそうだ。なので、「ここの葬儀社はいい」という勧め方ではなく、「ここの葬儀社の○○さんがいいですよ」という紹介の仕方をしたくなるという。それだけ葬儀は担当者の力量に左右される部分が多いのである。」(P102)

お父さん、「葬式はいらない」って言わないで (小学館101新書) (日本語) 新書 – 2010/6/1 橋爪 謙一郎 (著)

私も終活を始めて気が付いたけど、たくさんの葬儀社のサイトがあり、中には、口コミサイトも多数ある(自作自演も少なくない)。だからこそ、これぞ、と思える葬儀社・プラン・担当者を探す努力を怠らないようにしたい。

著者は、葬儀屋を決めるためには、1社ではなく数社と面談するように薦めている。とりわけ、担当者の力量によって、葬儀はいかようにも変化する。
そして、葬儀屋さんと事前に打ち合わせることも大事なんだけど、事前の家族とのコミュニケーションは絶対に必要だということを忘れないように。

「迷惑をかけたくないから」と準備していても、家族とまったく打ち合わせや申し送りをしていない人がいる。こうなると最悪の場合、せっかくの配慮がムダになる。こんな例があった。父親は自分でお金を払い込んで葬儀の準備をしていたのだが、そのことを子どもたちには知らせていなかった。葬儀社との契約書は引き出しの奥のほうにしまいこんでいた。何も知らない子どもたちは、親が亡くなった時、別の葬儀社に葬儀を頼んでしまった。葬儀後、父親の所持品を整理していると、葬儀の契約書が出てきたが、違約金を払うことになったので、お金はほとんど帰ってこなかった。」(P116)

お父さん、「葬式はいらない」って言わないで (小学館101新書) (日本語) 新書 – 2010/6/1 橋爪 謙一郎 (著)

家族に迷惑をかけないようにと、黙って行っていた生前予約が全くムダになってしまった例だ。突然死ぬこともありえるので、事前のソナエをしているなら、それをちゃんと話していくこと。自分の希望や家族の希望をちゃんと形にできるようにしていくことが非常に大事なこと。
もし、家族ではなく、自分の願いどおりに物事をきちんと進めていこうと思うなら、生前契約のような契約を交わすのもひとつの方法だ。(参考:「死ぬ前に決めておくこと」―葬儀・お墓と生前契約 松島 如戒

感想まとめ

やみくもな葬式無用論、簡素論の影響もあり、遺族の死を受け止め、消化できないまま日々を過ごしている人は多くなっているようだ。そもそも、グリーフケアはまだ日本では、十分な認知度を得ていない。宗教心が少なくなっている社会で、この面を担うのはある部分葬儀社ですが、まだ日本の葬儀社はこのレベルには到達していないように思える。

遺族の心を癒やす「悲しみの儀式」ととらえたときに、葬儀には小さくない意味がある。無縁社会、格安パッケージの葬儀社が横行する中で、それをどのように実現していくのかというのは社会が抱える1つの課題なのかもしれないと思えた。

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大人のADHDグレーゾーンの片隅でひっそりと生活しています。メンタルを強くするために、睡眠至上主義・糖質制限プロテイン生活で生きています。プチkindle作家です(出品一覧:https://amzn.to/3oOl8tq