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読書への愛憎混じりの讃歌

「本が読みたい……でも読めない!」

そんな人に私は大いに共感します。

それでも、本を読んできた私の話を
聞いてください。


メンタリスト 彩 -sai-(@psychicsorcerer)です。

noteを始めた時からやりたかった
読書感想の記事を、
半月前にようやく
始めることができました。

ここまで生きてきて、

気付いたら、
私の読書への思いは
かなり強いものに
なっているのですが、

それは、
愛憎相半ばするというか、
相当複雑なもののようです。

今回はそんな複雑な思いを
書き連ねてみます。


まず、
こちらの記事で書いたんですが、
私は一時期、活字がほとんど
読めなくなりました。
 ↓ ↓ ↓

思えば、今でも自分は、
活字中毒だという方を
見ていると
「自分は真反対だな」
と思わされます。


「私、気付いたら
 ついついお菓子をつまんじゃう」

それと同じような感覚で、
「私、気付いたら
 ついつい活字に触れてしまう」

私はそういうあり方とは真逆で。

私はいつも、
活字に触れる際に
「よしっ!」という気合いが
必要な人間です。


それと同時に、
私は活字と接していると
じっとしていられません、

これは人の話を
集中して聞いていられない、
すぐよそ見をしてしまう、
というあり方と似ています。

本を読むことに留まっていられず、
すぐにわき見をしたくなる、
そんな瞬間が私は多いのですが、

特に弱いのが、
情景描写なんです。


本読みの方、
特に小説がお好きな方と
お話していると、たまに、
「○○の情景描写が素敵で」
とおっしゃられることが
あるのですが、

私自身はそんな時に
共感できないことが多くて。

当該の本などに取り組んで
情景描写を味わおうとしても、
なかなかその方の感受性に
到達できなくて、
歯がゆい思いをします。

例えば、
梶井基次郎なんかはきっと、
自分にとって大切なことを
書いている作家なのに、
なかなか書いている事柄に
到達できない感があります。

こんな自分だから、
情景描写を読み取れる方に
憧れるんですね。

(その延長上で、
 現在は俳句や短歌などにも
 関心を持っています。)


私が読書を始めたきっかけは
ミステリ(江戸川乱歩が最初)
に惹かれたことでした。

その後の人生では
教養書や学術書の類を
中心に読んできています。

そんな私のことを
私自身では、
論理、あるいは、
構成・構造や仕組みに
惹かれる度合いが強い、

そんな人間なのだ
と捉えています。

(私は大学時代には
 数学を学んでいたのですが、
 そのこともこれに関連します。)

しかし、

結果的には、
ここまでの人生で、
上のものを中心にしながらも
小説も詩もエッセイも
漫画も雑誌も、
かなりの幅のものを
読む人間になりました。

それは、
活字に苦労しながらも、
「自分は読書に
 取り組まなくてはならない」
といった不思議な義務感、
あるいは妙な情熱
といったものが
人生の中で常にあったからです。

私はその気持ちを
見捨てませんでした。


そうして読書を続ける上で
気が付いたことが、

論理や構造を中心に惹かれる
私の中には、
たとえ情景描写をそのままで
受け取るのが苦手といった
部分があったとしても、

論理だけでおさまる気質
(ザ・理系のような感じ)
だけでなく、
もっと感性的な部分を、
たとえ不器用であれ、
視野に入れている

ということでした。

(自分には、
 文学上の名作と
 呼ばれるもので、
 ちゃんと読んでみたいと
 思わされるものが
 結構あるのですが、
 ずっと苦労しています。)


いまだに、
読書の際に
苦手意識や不器用さが
残っている部分は
多々あります。

「本、読めねぇ!」
って投げたくなる時も
正直あります(笑)

それでも
義務感めいた情熱を
私は見捨てなくてよかった
と思っています。

これまで多く取り組んできた
読書への経験が、
今現在に至って、

ようやく自分を
憧れていた地平に
立たせてくれて
ゆっくりと、細々とでも、
進めるようになりつつある

そんな風に感じています。

(また、
 私なりの本の読み方を
 お伝えする記事を
 書いていきますね。)


自分の歩き方がわかって、

自分の歩いてきた場所も、
気付いたら随分と
多くなっていたから、

これからはもっと
好きな場所を
自分なりに
歩けると思う。

これから見えるものが
本当に楽しみだ。


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