結婚制度は自動車免許と同じ 権利ではなく免許
私たちは新しい価値観に適応するために社会システムを捉えなおす時期に来たのかもしれません。
多様性が叫ばれる世の中で、今あらゆる垣根を取り除いていこうというムーヴメントが強く存在しています。LGBTやジェンダー・フリーなどがまさにその際たる例です。
基本に立ち返るということをスローガンとして、結婚とは何かについて言及したいと思います。
日本において、婚姻は憲法の定めるところです。
第二十四条 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
② 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。
引用 e-Gov(以下同)
現在ではこの「両性の合意」の「両性」が男女なのか、あるいは同性婚のような同性カップルも適用することのできる「両者」を意味しているのかが先日の札幌地方裁判所での争点の1つでした。(実際のところ、札幌地裁では24条の適用範囲は異性カップルのみであるとの判断がなされました)
さて、結婚は権利ではないと大風呂敷を広げましたが、それがどういうことなのかを説明していきたいと思います。
まず、日本は法律婚主義を採用しています。つまり、法律の定める手順によって初めて婚姻関係が認められます。プロポーズして許可を貰ってもその場で婚姻が成立しないわけです。(プロ[前に]+ポーズ[置く]ですから、それ自体に効力がないのも当たり前です)
上記に引用した憲法の条文に注目してください。
婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有する
「結婚は権利!」という声が声高に聞こえてきますが、よくよく見てみると結婚によって夫婦が同等の権利を持つのであって、結婚自体が権利であるとは、第24条には書いてないんですね。
「結婚は権利」といったときの根拠は、憲法上は第13条の「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」という文言にあります。つまり、幸福追求の権利の選択肢として結婚が権利であるということです。
もっと言えば、そもそも幸福追求のために結婚を選ぶ必要もこれっぽっちもないんですから、「結婚して当たり前」ではなく、生きる上で必要とあらばするというものです。
では、必要なのはどのようなときでしょうか。
精神的な必要性は十人十色の理由があると思います。
むしろ物理的な要件が何か、というところが結婚を定義づけるに当たって重要であろうと思われます。
法的な婚姻については、憲法の規定下にある民法の第4編 親族・第2章 婚姻と戸籍法に基づいています。
実は、法律上、婚姻に付帯して変更されることは決して多くないんです。
1つは氏に関して。結婚したらどちらかの姓を名乗る必要がある。(ここには選択の権利があるのでまったく男女差別ではない〜〜)
あとは以下の2つでしょうか。
同居、協力及び扶助の義務)
第七百五十二条 夫婦は同居し、互いに協力し扶助しなければならない。
(婚姻による成年擬制)
第七百五十三条 未成年者が婚姻をしたときは、これによって成年に達したものとみなす。
第七百五十三条については多くの方が無関係であろうと思います。
実質的には、①氏の変更、②扶助の義務の2つと言えるでしょう。
「なんだ、それだけなら簡単なことじゃないか」と思われたかもしれません。
しかし問題は、
実際に問題となる婚姻の諸問題は法的に定義づけられていないことにあります。
法的定義がないにも関わらず、なぜ婚姻が重要なのか。
それは、婚姻制度が長い歴史の中で文化として保持されてきた習慣の一部であるからです。
ですから、「法律に書いてあることが全て、法律に書いていないことは存在しないということだ」という人はそもそも大きな矛盾を抱えているのです。
つまり、「婚」「姻」の意味もわからないまま婚姻について議論しているにすぎないんです。
細かいことを言えば、一般には当然とされる貞操義務も法律上の明文は存在しません。(だからと言って貞操を守らなくていいわけではありません!)
ですから、結婚して利益を享受できるというよりも、結婚という法的手続きによって氏を受け継ぐと同時に財産的な保護を受けることはできるが、歴史的に積み上げられた義務や礼儀などを守らなければいけないと考えられます。
(ここでも選択的夫婦別姓の議論が必要ですがまた別の機会に)
結婚するしないは自由でも、結婚自体は義務を背負うことに他なりません。
両性が協力し扶助し合う義務、子供が生まれればその子供を育てる義務があります。
財産に関しても、相手が今まで所有していた財産まで、夫ないしは妻の財産とすることは特段の約束がない限り不可能です。結婚してから得たお金に関しては、これまた特段の契約がない限りは個人ではなく共有の財産とみなされます。
個人の財産さえ共有にするのが一般的なのです。
ですから、その義務を負う必要性のある異性間のカップルに対して、その義務を負うか否かの権利があるのだと言えます。
結婚をしなければ、法的責任や義務からは一切自由ですから、いかなる権利も行使することができます。
でも、
あえて自由を放棄する
という者たちに対してその義務を課すのが結婚制度であろうと思います。
その義務を負うことによって、一層仲が深まるのであれば、それは無駄ではない選択であると言えます。
同様に、車を運転したければ免許を取る。至極単純なことなのだと思うのです。
ゲイも結婚したがるのはなぜか。
ではなぜ同性愛者が「結婚」という貞操義務やあらゆる義務を負う事になる多様性の対極を求めるのか。
リベラル系の人物らがよくいうのは、「社会が有しているあらゆる規範や不平等が個人の中に内面化され、無意識のうちに再生産される」という考えです。
わかりやすく言えば、流行に敏感な女性が流行の洋服を見て、「こういうのが欲しかった」と感じる状況に似ています。
社会や服飾産業の中で生産されたイメージが「個人の好み」として内面化されてしまうという状況が説明できます。
異性愛者が結婚というものを理想化しすぎるが故に、同性愛者もまたそれを内面化し、憧れてしまうという構図になっています。
婚姻自体は同性間で結ばれる必要のないものです。
単に利益の供与、財産の相続が必要であればそれこそパートナーシップ条例を拡充すれば済む話です。
すこし自分の意見を出しましたが、時間も時間なので今日はここまで。
何れにしても、社会の変革とともに、議論が巻き起こることは、日本が国際社会の中で存在感を示すためにも歓迎すべきことであると思います。
そして、旧来の陋習を改めるということにも不断の努力をしなければなりません。
しかし、何が良習で悪習であるかは、活発な議論と深い検討によって初めて判断することのできるものであり、善悪の判断はあらゆる文化の中核をなす、最大重要事項です。
引き続き、様々な議論をしていきたいと思います。
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