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失語症の体感を模索

まだ知らない失語症/もっと知りたい失語症

2章 失語症の体感を模索

 本章では、体感を手立てとする「失語症」の疑似的な体験を模索します。

 「検討する」ではなく、「模索する」としました。
 考案した疑似的な体験に対して実践と修正を繰り返すことができるのであれば、「検討する」に近づきそうです。そのためには、疑似的な体験に参加する数名と、失語症当事者の意見が必要になると考えました。
 現在、(コロナ禍の影響で人が集まることができないことを含めて)両者とも得難い状況であるため、「模索」に留めることにしました。
 
 体感を手立てとする「「失語症」の疑似的な体験であり、

ことばでの表現に当てはめることではない

 ということは前章でも述べました。例えば、失語症者の状況を「話せなくてもどかしいということがわかった」と言語化することを目指してはいません。

 視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚のなかで、ことばに関わる感覚として相手の話を聴くための「聴覚」、文を読むための「視覚」が挙げられるのではないでしょうか。
 しかし、失語症は「聴覚」、「視覚」の障害と誤解されがちであるため、敢えて「聴覚」、「視覚」を外すことにしました。聴覚・視覚以外の感覚に、「触覚」、「味覚」、「嗅覚」があります。
 「触覚」を手掛かりにする場合、「リズム(注1)」を用いることができそうです。
 「リズムをとる」ことを通して、失語症者がどんな状況か体感できるでしょうか。

(注1)「リズム」 が思い浮かんだのは、音声指導法の「ヴェルボトナル法」に関心を寄せた影響だと思います。また、正高信男先生の「子どもはからだでことばを覚える」 を読んでいたことも要因であったと思います。

 
 「リズムをとる」とは、ある曲や歌に合わせて、手で拍子を取ったり、机をたたくことではないかイメージがつくと思います。
 それでは、知っている曲・歌のテンポを変えた場合はどうでしょうか。曲・歌のテンポを変えても、そのリズムをとることができるでしょうか。 
 
 昨年投稿した「失語症文化論仮説」では、失語症者が持つ文化とは「スラスラと話さなければならない呪縛からの解放」という仮説を示しました」

​ https://note.com/05390539/n/n6b92cd3ce85f

 ここで、失語症者に伝えるときは「ゆっくり話しましょう」、失語症者の話を聴くときは「ゆっくり聴きましょう」と誘導してしまっては、ことばでの表現に当てはめることに戻ってしまいます。
 失語症者との関わり方のハウツーに直結させるのではなく、伝えること、伝えることのテンポが遅くなることをどのように体感できるのか、リズムに乗ることを通して考えてみます。

 ところで 
 「テンポ」と「スピード」は同じ意味かと思っていたのですが、そうでもないようです。
 テンポがイタリア語、スピードは英語と単純な違いでもありませんでした。Wikipediaによると

1.西洋音楽においての、拍の時間(長さ)
2.音楽、話、作業などの速度のこと。例:早いテンポで話が進む。
3.一般的なイタリア語で時間の事。英語でのtimeに相当しそれだけでは速度としての意味は無い

となっていました。
 この話の中では、「1.西洋音楽においての、拍の時間(長さ)」と「2.音楽、話、作業などの速度のこと。例:早いテンポで話が進む」が混ぜて使っています。というより、
テンポの意味を明確に捉えず書いておりました。

 自分が、改めてテンポをどのように活用したいのかを見直してみました。
 話題が「曲や歌に合わせて」のときは「西洋音楽」の意味で、「話を伝える・伝わる」のときは「音楽、話などの速度」の意味で使い分けているのだと思います。

 ずいぶんと脱線していました。話を戻します。
 失語症者との伝達が遅くなるのは、失語症者はことばを思い出すことや、声が出るまで時間を要することが要因の一つであると言えます。伝えたいことばが思い出せない場合は、身振りや状況から話し相手が察することに時間を要します。
 この伝えようとしているときに、「自分はことばが思い出せないのだから、ことばが出てくるまで焦らず、ゆっくり待とう」など自分に言い聞かせることができるものでしょうか。
 失語症者にとっても、自分が伝えるときの「遅さ」に合わせることは難しいことだと考えます。

 このことを「遅さ」に合わせることを体感する方法を考えました。
①聞き馴れた曲あるいは歌を再生し、そのテンポに合わせて机を軽くたたき続けます
②曲あるいは歌の途中からテンポを遅くします
 ・You Tubeならば、画面右下の歯車のマークをクリックします
 ・「再生速度」が出てきます
 ・「標準速度」を「0.25」に変更します。
③そのテンポに合わせて机を軽くたたいてみます
 ……どうなるでしょうか

 次の曲、歌で試してみました。
・「アイネクライネナハトムジーク」:よく知っている曲です。しかし、テンポを遅くしてみましたが、案外簡単に合わせてリズムをとることができました。

・大塚愛の「さくらんぼ」:アップテンポの歌で試してみました。これは、合わせにくかったです。歌を口ずさみながらだと一層、先に進みたくなりました。

・DA PAMP の「USA」:これも、先に進みたくなります。歌ってみると尚更でした。

 「歌を歌う」という運動が加わるためでしょうか。単に「歌う」といっても、メロディや歌詞を合わせるという「運動」が加わることで、リズムをとって机をたたくことに負荷が増すからではないかと考えました。

・番外編:映画「インセプション」のテーマ曲は、エディット・ピアフの「水に流して」を20倍遅く再生していたそうです。あまりに曲が変わってて、オリジナルの「水に流して」とは別の曲となっていました。かなり遅くすると別の曲となってしまうので、馴染み感が無くなり、違和感なくリズムをとって机をたたくことができました

 今回、体感を手立てとする「失語症」の疑似的な体験を模索してみました。
 実際の失語症者の方の体感と共通することがあるのか、全く異なるだけなのか、いつか尋ねることができたらと考えています。

 機会があればワークショップや、ワークショップのアイスブレイクで実践して、「体感」した感想を聞いてみたいと思います。テンポを遅くした歌に合わせてリズムをとったり、歌うことで、何か発見が得られるかもしれません。


 

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