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5月第4便:わたしの「強さ」はどこにある?

To涼花さん

お返事ありがとうございます!とても丁寧にお返事を考えてくださって、嬉しいです。

今回は5月の最終便。全4回を通して「強さ」について対話してきました。
前回のお返事をしつつ、4回のまとめをしていきたいと思います。

「強さ」緩められないかという問いかけの中で、私は仕事に悩みを抱えている友人に対して、社長になってその人を雇うことはできないけれど、夜食のうどんを作りに飛んでいくことはできる。と書いてみました。
それに対して、涼花さんは、私の「うどん」的な関わりが【十分な助け】となるためには、
【人権(個人が人として大切にされること)】が保証され、
社会が【生きていくのに必要な、「強さの要求」の度合いが緩まった社会】へと変化する必要がある、と応えてくれました。
さて、私は涼花さんのお返事を読んで、主に2つのことを考えてみたいと思っています。

1.「私は強さを持っている」と思いたい気持ちについて
2.社会が変わるまでのあいだ、私たちはどう生き延びるか

1つ目からゆっくり考えてみましょう。

1.「私は強さを持っている」と思いたい気持ちについて


「弱いままでいてもいいよ」と言われたいけれど、
「私、強いかも!」とも思いたい。
そんな矛盾する気持ちが私の中にはあります。
前回涼花さんは、私の「守り方」について、こんなふうに言ってくれました。

【その友人にとってそのうどんをつくってくれる人は、たぶんマシュウさんしかいません。だからマシュウさんはうどんを作ってあげたらいいと思います。】

私は、なんだか私の弱さと私ならではの強さを同時に肯定されたような気分になったのです。

ここで少し、私の言っている「強さ」という言葉について深掘りしたほうが良いかもしれません。
恐らく、今まで議論されていた「強さ」は、
社会から要求される「生き残るための力」
みたいなものだったと思います。

私がここで言及している「強さ」は、
自分を「ちょっといいじゃん」と思える部分
それを原動力に、誰かの役に立てる力
落ち込んでぺしゃんこになったときに、自分を立て直せる拠り所

みたいなものを指しているように感じます。

とても平たく言ってしまうと、「主体性」や「軸」という言葉に置き換えられるでしょうか。

生い茂るたくさんの木の写真
木の幹って強そうだよね

こういったものは、「持っているべき」「育てるべき」と言われると
「ちょっと、そこまで頑張れないです…」という気持ちになるものの、
「無くてもいいよ~」と言われると、
「たぶん、どこかにあるはずだから、もうちょっと探すのを待ってて(もしくは手伝って)」という寂しい気持ちになります。

つまり、「強さ」を社会から要求されるのはしんどいけれど、
私なりの「強さ」を見つけるのを社会に信じて待っていてほしい。
そして、まつことのできる社会、固有の「強さ」を受け止め伴走する社会だったらいいなと思うのです。

2.社会が変わるまでのあいだ、私たちはどう生き延びるか


今の「強さを要求する」社会は、確かにしんどいです。
支援やケアの制度は不完全で、漏れ落ちる人びともたくさんいます。(私もその1人だと自覚しています)
涼花さんも前回、会社や行政などの「公-おおやけ」のものが、もっと人権を考慮し、1人ひとりの背負うものを肩代わりできないかという問いかけをしていました。
そういった社会をつくるためには、地道な働きかけが必要です。
選挙に行く、声を挙げる、署名をする、研究や活動を通して制度づくりを提案する…
ただ、社会が変わるのには膨大な時間がかかります。
その間、社会の要求する「強さ」を持たない私たちは、そのままの社会でなんとか生き延びることになります。
語弊を恐れずに言えば、そんなままならなさをやり過ごさなければならないのです。

今わたしは、ものすごい肩こりに悩まされていますが、これはもうじっくり時間をかけて体質改善をしないといけません。
けれども、今現在の痛みをやり過ごしたいので、湯たんぽを使いつつ、ちょっとずつストレッチをしています。
湯たんぽもストレッチもどちらも必要です。

また、「湯たんぽ」にあたるものは人それぞれ異なります。
ずっと心にあるしんどさに対して、
ボカロの音楽が癒しとなる人、
森や海が癒しとなる人、
人とおしゃべりをするのが癒しとなる人。

また、葬送儀礼(つまり亡くなった人を葬るための儀礼)は、地域や宗教によって異なるわけですが、
「死の悲しみ」を乗り越えたり、遺された人びとが連帯を強め、生き延びられるように形をかえつつ継承されてきました。

そういった「湯たんぽ」や「儀礼」的なものを携えて、
ままならないままでも生きていける社会に変わることを待ち、
社会が少しでも変わる働きかけを自分なりにできたらいいなと思います。

涼花さん、みなさんの「湯たんぽ」はどんなものでしょうか?
それを探す営みもとても面白く、じっくり探す時間を作っていきたいと私は思うのです。

湯たんぽにお湯をそそぐ女性のイラスト
湯たんぽの形態と歴史に関する論文があるらしい

3.5月の「もやもや郵便局」を振り返って


なんだかとっちらかってしまいましたが(いつも通り!)、今回で5月の往復書簡は一区切り。
少し振り返ってみたいと思います。

涼花さんが感じた「強くなること」へのもやもや。
「強さって色々な強さがあるんじゃないの」という問いや「強さを要求しない社会が必要だ」という気づきがありました。(めっちゃざっくり。ぜひそれぞれの記事を読んでみてください!)
今回、私たちは「弱くてままならない」立場としてお手紙を書いていましたが、
「無自覚に持ってしまっている強さ」についてももっと考えてもいいかもしれません。
それはまた別の機会に…。

涼花さん、ひとまず1か月間、お疲れさまでした!ありがとう。

まだ始まったばかりの「もやもや郵便局」。
ご意見、ご感想お寄せいただけると、とても嬉しいです。
それではまた、6月もお会いしましょう。

Fromマシュウ

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